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【ブラウブリッツ秋田】 熊林親吾、引退発表。16年で数々の記憶を残してきたその存在と熱き姿 【引退】

2015/10/05 20:12配信

飯守 友子 (CHANT編集部)

カテゴリ:コラム

(出典 ブラウブリッツ秋田)

また一人の偉大なフットボーラーが引退を決めた。

熊林親吾。
現在はJ3 ブラウブリッツ秋田で選手兼コーチとしてfootballな日々を送っていた。
秋田出身の熊林は、秋田からサッカーを伝えよう、大きくしようと自らの経験を伝え、影響力を持って邁進していた。

現役生活16年。

プレーしたチームは7チーム。

それぞれに記憶に残るプレーヤーであり、たくさんの人に愛されたfootballな選手だ。

●現役生活16年。それぞれのチームで光ったその存在

(出典 Getty Images)

ジュビロ磐田が黄金期として今も語り継がれている歴史を刻んでいた頃、熊林はプロ生活をジュビロ磐田でスタートさせた。
同じく秋田商業高から注目されていたFW清野智秋とともに、ジュビロ磐田へ加入。
2000年。名波浩が海外挑戦ベネチアを経て、ジュビロ磐田に復帰した年だった。

当時のジュビロ磐田のスターティングメンバーの選手たちは、日本国内でも超一流の選手たちであり
現在監督である名波浩を中心としてN-BOXというシステムを採用し、日本サッカーにこんなこともできるという新たな可能性をも生み出した強きチームであった。

名波浩、中山雅史、藤田俊哉、高原直泰、福西崇史、田中誠、大岩剛など超一級の選手たちの中で、若手たちは日々トレーニングで日本最高レベルのトレーニングを受けていた。
その中で、熊林はサッカー選手としての日々を送っていた。

一年遅れて上本大海が入団。

熊林と清野、そして上本大海がよく一緒に行動したことを今でも覚えている。
レベル高き黄金時代ジュビロ磐田で、この選手たちがどんな選手になっていくのかと当時は考えたものだ。
偉大な先輩たちの背中をこの選手たちはどんな刺激を得て、どんな目で追っているのかと思ったものだ。

日韓W杯が行われた2002年。
熊林が今でも憧れの選手や目標とする選手として挙げる名波浩が、日本代表に選出されるか否かという渦中の中にいた。
当時、膝の大けがを負った名波はW杯を目標に回復を目指していた。間に合うか間に合わないかという中で注目された背番号10は、中村俊輔か名波浩かという選択だと思われ注目されていたが、
発表された背番号10は、同じくジュビロ磐田の中山雅史だった。

憧れの背中を目指し、日々トレーニングを重ねていた熊林は、その怪我との闘いも近くでみてきたであろう。
日本サッカー界の熾烈な戦いの中で、チームとして鹿島磐田という2強時代を迎えていた中でも日本代表への選出や、選手たちの競争の激しさがあった。
その時代を現実的に過ごしてきた熊林は成長するため、湘南ベルマーレへと期限付き移籍。
当時、ジュビロ磐田から湘南ベルマーレへと期限付き移籍するというルートが多かったのも事実。
湘南ベルマーレで試合に出場し、プロサッカー選手として成長することを誓った。

日本中が日韓W杯に湧く中で、湘南ベルマーレへの移籍を決め、Jリーグ中断期に湘南ベルマーレへと加入した。

ジュビロ磐田では出場機会がまったくなかったが、湘南ではシーズン途中に加入したもののリーグ戦28試合に出場。J初ゴールも記録した。
湘南ベルマーレでは中盤の中心選手として活躍し、その後完全移籍となった。

2005年には横浜Fマリノスに移籍し、多彩パスワークで魅せるも、スタメン定着とはいかず、ベガルタ仙台へと移籍。

ベガルタ仙台は当時まだJ2で戦っていたが、J1昇格に向けてチーム力を上げている時期だった。
再びチームの中心選手となると、スタメンに定着。仙台のサポーターから大きな声でチャントが届けられ、地域密着を進めていたベガルタ仙台は選手とサポーターの距離を縮めていく中、熊林はサポーターにとても愛される選手となっていた。
しかし、昇格争いから脱落してしまいチームは昇格することができずシーズンを終えると、監督交代を迎え熊林は出場機会が激減した。
そして2007年途中には徳島ヴォルティスへと期限付き移籍となり、徳島ヴォルティスでプレーした。
シーズン終わりにはベガルタ仙台からも徳島ヴォルティスからも戦力外という報道と発表が出ていた最終節。
仙台と徳島の試合がユアテックスタジアムで行われ、仙台サポーターの前へと挨拶に向かった熊林を多くの仙台サポーターが熊林のチャントを響かせ、迎えた。

熊林は涙を流し、ベガルタの選手も涙で熊林を送り出した。
どこかクールな印象がある熊林だが、心が優しく温かい。そして熱いものを持っている選手だった。
その姿が現れた場面となり、ベガルタ仙台サポーターの記憶にしっかりと残っているのではないだろうか。

その後、ザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)にてプレー。
ザスパといえば熊林というほどに、その多彩で質が高くセンス溢れるパスが光った。
草津と対戦するチームの警戒はまず熊林というほどに、熊林は草津で圧倒的な存在感を魅せた。
発展途上中だった草津において、熊林の加入は大きく、さまざまなチームで経験したものを伝え、チームの土台を作った1選手となった。

2011年。
起きた東日本大震災。

秋田県出身の熊林にとって、他人事ではない大きな災害だった。
東北人魂を持つJ選手の会は、被災地ともなった岩手県大船渡出身である鹿島アントラーズ小笠原満男によって結成されたが
そのきっかけは、秋田出身の熊林からの一本の電話からだった。

東北人としてなにかできないか―。

そう切り出したのは熊林親吾からの提案だった。

それをきっかけに東北人魂を持つJ選手の会は結成され、熊林もその一人として数々の行動を発信し、東日本大震災の復興に向け力になれることがあればと何度も被災地へと足を運び、活動した。

(出典 ブラウブリッツ秋田)

そして同年8月には、横浜Fマリノス時代から親交のあった松田直樹が心筋梗塞で倒れた。
その時にはザスパ草津全選手の想いとして、回復を願ってメッセージを書き込めたフラッグを持って、熊林は松本に駆け付けた。
居ても立ってもいられなかったその想いを持って駆けつけたその想いも、熊林の松田直樹に対する強い想いがあったからこそだ。

松田直樹が亡くなってしまった後のはじめての試合で、熊林はゴールを決めた。
腕につけていた喪章を天に掲げ、松田直樹に想いを伝えた。

5季草津でプレーした熊林は、引退を一時表明していた。
指導者になり、サッカーを後世に伝えていくために決心したものだったが、あるオファーをきっかけにその引退を撤回する。

それがブラウブリッツ秋田からのオファーだった。

熊林の元にはまだまだ数多くのオファーがあったと言われている。
その中で引退を決意していた熊林だったが、地元秋田にJリーグのチームをと活動するブラウブリッツ秋田の社長が何度も熊林の元へと通い
その熱意が伝わり、秋田の子供たちにサッカーとはどんなものかを伝え、秋田にJリーグのチームを実現させるためにと、引退を撤回。

ブラウブリッツ秋田 熊林親吾が誕生した。

今季3シーズン目を過ごしていたが、シーズン終了後の引退が発表された。
秋田にJリーグクラブを実現し、秋田にfootballを伝えた熊林が、16年の現役生活にピリオドを打つ。

過ごしたチームは7チーム。
5季過ごした草津が最長で半期だった徳島が最短であるが、どのチームをとっても記憶に残る選手だったのではないであろうか。

私の中で熊林親吾といって思い当たるのは、1試合も出場記録のないジュビロ磐田時代。
この選手はこの黄金期の中でどう成長するのかと見た、あの日だ。

結果的にジュビロ磐田では出場することができなかったが、その後16年も現役生活を過ごす選手となり
数々のチームで記憶に残る選手となり、目の覚めるようなスルーパスの数々を生んだ選手となった原点には

ジュビロ磐田のあの時代からスタートしたことにあるのではないかと感じ、活躍を目にしてきた。


現在J1J2J3通算415試合に出場してきた熊林親吾。
代表という括りとは無縁だった選手だが、その存在はサッカー界に大きく残っていくことであろう。
チームにてなかなか定着するのは難しいというプロ生活の方が長かったかもしれない。
それでもたくさんの人を魅了するそのプレーと、存在感、クールそうに見えて熱きものを持っているその姿は、たくさんの人々に愛され
たくさんの人々にfootballを伝えた。

秋田からプロ選手となった彼は、秋田にfootballを伝えるためにプレーした。
背番号10の背中は歴史を感じさせる重く輝かしい背中だ。

また一人、偉大なプレーヤーがピッチを去る。
そして今後の日本サッカー界に、その経験を伝えてくれることであろう。

選手としての熊林親吾の時間は残りわずかで終わりを迎える。
だが、今後伝達者となった熊林が育てる選手たちが出てくるその日を、新たな楽しみにしたいと思う。

たくさんの戦う気持ちを

戦う勇気を

出会いと別れに存在する想いを

仲間を想う気持ちを

地域をチームを愛するということを

教えてくれた選手であったことを、ここに記しておきたいと思う―。

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