【鹿島アントラーズ】 サッカー選手を支える人々 第3回~昌子源選手の父 昌子力さん 後編~
2014/12/02 12:14配信
カテゴリ:コラム
鹿島アントラーズの最終ラインは、Jリーグの中でも一番若きディフェンスラインといって良いであろう。
そのディフェンスラインの統率を行っている選手
日本代表に選出され、その将来に期待がかかるセンターバック 昌子源。
そのお父様にお話を聞いた。
サッカーを支える人々、連載第3回目のスポットは昌子源選手のお父様である昌子力氏。
父であり、指導者でもあるその存在はとても大きなものだった―。
前編
http://chantsoccer.com/posts/553
今回は後編をお届けする。
●将来を決めた新たな可能性。運命のセンターバックコンバート。
米子北高校に進んだ昌子源選手は、それまでのFWでプレーしていた。
当時の米子北高校は全国的にみても、強豪とはいえない存在だったが、入学した時、米子北にはたくさんの有望選手が存在していたことも運命的だった。
先輩や後輩にも恵まれた米子北時代は、鳥取のサッカーを大きく動かした。
自身もU-16に選出されるなど、復帰してすぐに選手個人としても注目を受けた。
鳥取県の選抜、国体の代表に選出されると源選手はセンターバックにコンバートされた。
最初はFWとしてという意識が強く、ディフェンダーへのコンバートは納得がいかなかったという。
それでも高校2年生時、完全にセンターバックへとコンバートされ、そのポジションでプレーしていくことを決意した。
そしてその年、米子北はインターハイで準優勝という結果を残した。
鳥取県勢として全国のサッカー大会で準優勝という成績を残したことは偉業だった。
現在ガイナーレ鳥取でプレーする山本、谷尾といった当時強力と言われた2トップを有し、そしてセンターバックには昌子が君臨した。
国体に出場した際に、大切な縁が生まれた。
一回戦で対戦したのは茨城県代表のチームだった。
そこに同じ茨城県だからと視察に訪れていた鹿島アントラーズの強化部。昌子源選手の姿が目に留まったのだ。
そしてその後U-19代表候補にも招集された。インターハイ以降、一気に全国の強豪チームと肩を並べて注目されるようになった米子北の評価は高く、センターバックとしても超高校級という言葉を使われるまでに成長した。
センターバックにコンバートされてから2年弱。
昌子源の元には、鹿島アントラーズからのオファーが届いた。
当時のことを、昌子氏は「プロにするのは悩んだ」と言った。
18歳でサッカーでお金を得ることに、とても大きな不安を感じたという。
サッカー選手という特別な職業に就き、その立場を自分で理解するにはまだ18歳では難しい。
同年代の初任給よりもお金を得て、そのお金で遊んで歩くのではないか。調子に乗るのではないかと心配だったという。
たくさんの選手が高卒でJリーガーとして毎年デビューすることとなるが、親の気持ちとしてはサッカーでお金を得て、親から離れて暮らすこと、サッカー選手という一見きらびやかな世界を手に入れることによって道がまがってしまわないかという不安を持ってしまうのは親としての愛情として考えてしまうものであろう。
昌子氏は自身がユースや大学、プロクラブのサテライトで指導をしてきた際にそういった選手たちを何人もみてきたのだ。
実際にサッカー選手という職業となったことで、潰れていく選手や、人間としてまがってしまう例を近くで感じてきた。
自分の子どもは、よりそれよりも幼く感じてしまうものだ。
自分の子どもはどんなに大きくなっても、子どもだから、だ。
その不安を鹿島アントラーズの強化部長に素直に話したという昌子氏。
その時、鹿島アントラーズから予想もしない言葉が返ってきた。
大丈夫ですよ、お父さん。
そういった部分もしっかりサポートしますし、教育もします。
選手として、プレーだけの部分だけではないんです。
鹿島アントラーズに入団してもらうということは、家族になりましょうということなんです。
ですから、大切な息子さんをお預かりさせてください。
その言葉は、長年サッカー界に携わっている昌子氏でも、驚いたという。
このチームなら、信じることができる。
そう思った。
入団してから、何度か鹿島まで足を運んだ。
練習を観に行き、静かにひっそりと観ていようとしてもすぐに鹿島のスタッフが飛んでくる。
いいですよ、私はここでひっそり観ていますから、と言っても
何言ってるんですか、お父さん!私たちはファミリーなんですから!
そう言って用意した席まで通してくれるのだという。
毎回必ず、私たちはファミリーですから。と言ってくれる鹿島アントラーズに自分の息子がお世話になって本当に良かったと今でも実感するという。
鹿島アントラーズというチームに入団したことは大きかったと、昌子氏は言う。
●鹿島アントラーズでの成長 ついに日本代表という舞台へ
常勝軍団・鹿島アントラーズ。
そのチームで成長することは本当にプロ選手として、大きなことだ。
なかなかディフェンスラインで若くして試合に出場するまでになるのは難しいが、鹿島で練習を重ねることは選手として大きな経験だった。
2011年から鹿島アントラーズの選手としてスタートし、その年の天皇杯で公式戦初出場を果たした。
次の年にはリーグ戦にも出場したが、すべて途中出場。ナビスコ杯でも出場機会を得るなど徐々に機会を掴んだが、2013年には出場機会が減った。
それでもまだまだ若き選手であり、まだ鹿島には偉大と感じるベテランの選手たちも多くいた。
そして大きな変化となったのは、2014年。
今季は開幕からスタメンとして名を連ねた。聖地と言われる国立競技場で迎えた開幕戦で、スタメン出場、そしてプロ初ゴールも生んだ。
それから現在リーグ33試合すべてにスタメン出場し、全試合出場まで1試合となった。
今季はW杯イヤー。開幕から注目を集めた源選手は、はじめての日本代表候補に最後といわれた4月の国内合宿に招集された。
注目されし若きセンターバックは、日本全国からの注目を集めることとなった。
その後、サックJAPANには選出はされなかったものの、新たな日本代表となるアギーレJAPANへの選出が注目され、連日報道されていた。
しかし、初招集となる9月には選出されることがなかった。
その時、父である昌子氏は源選手と電話で話したという。
Jリーグでのプレーを観ていた父は厳しい言葉をかけた。
名古屋のケネディ、東京のエドゥ…これから世界で戦おうとする日本代表のセンターバックがJリーグに在籍している外国人に負けてたのでは選出なんてされない。
そんな甘い場所ではないだろう。まずはJリーグの外国人を圧倒できるぐらいにならなきゃな。
昌子氏だからこその、焚き付けだ。
父親としてはもちろん、指導者としての言葉でもある。
愛する息子の名前が挙がるのは嬉しい。でもただ褒めたり、讃えたりするのではなく、高くなりそうな鼻をへし折ってやるんですと楽しそうに、そして愛情いっぱいに昌子氏は笑う。
今季、試合を観ていて気になることがあった。
今年は試合に出場する機会が多くなり当然ピッチにいる時間も長いが、主審に抗議をしに行く姿を観て、父としてそして指導者として源選手に話をした。
その姿は昌子氏にとっては、嫌なシーンだったという。
抗議に行くのもひとつのチームとしてのパフォーマンスであり、スタイルな部分もあるが、それでもディフェンスラインから抗議に出ていく姿は、あまり良いものではないと感じた。
不必要な時に偉そうに主審に抗議をしに行く姿は、誰も幸せにしない。そう昌子氏は伝えた。
まだ若き息子だけに言葉を濁したが、それでもその次からはそういった姿はなくなったという。
父の言葉を受け入れたのだ。
ある試合を中継で観ていた時。
試合が止まった時に、水を飲んでいる源選手が映った。
そして相手選手に水を渡していた姿が映った。
その姿が嬉しかったという。不必要な時に抗議をする姿よりも何倍も良い。相手選手に水を渡すなんてほんのちょっとしたことかもしれないが、それでも相手選手にでも関係なく鹿島のボトルの水を渡す姿は、息子の姿として嬉しかったと昌子氏は話す。
昌子家の家訓として、恩返しという言葉があると昌子氏は言う。
感謝の気持ちを持って、自分に関わったすべての人に恩返しをすること。
それが昌子家として大切にしていることだと話す。
昌子氏は毎日たくさんのサッカー情報をインターネットや雑誌、新聞などから入手する日々を過ごしている。
それは息子のことや鹿島のことを知りたい気持ち、そしてそこに代表の情報を入れる日々も増えた。
その中で、今日の鹿島の練習に行って昌子選手にファンサービスしてもらった!優しかった!という言葉を見つけるととても嬉しくなるという。
応援してくれてる人たちに、プレーで返すのはプロとしてもちろん、そういった機会が与えられるプロ選手だからこそ、しっかりやってほしいと願っている。
優しかった、ファンサービスしてくれたという言葉や、試合後、笑顔で応える姿を観ることがゴールをした時よりも嬉しく感じるのだと言った。
親として子どもの成長と、子どもの心の部分を知ることができると昌子氏はやさしい言葉で聞かせてくれた。
10月。
日本代表に招集されながらも負傷により、辞退。
そして11月、ついに日本代表に招集された昌子源。
代表に選出されて、お話はされましたかという問いに
昌子氏はこう続けた。
初選出で迎える関西での代表戦に備えて、源選手の意識も高かったはずと昌子氏は言う。
関西は源選手にとって地元。名古屋での試合ももちろんだが、18日に行われる大阪での試合に関して昌子氏はこう言った。
代表に招集されてすぐに使われることは、ほぼない。
今後代表に選ばれるために18日の試合ではなく、お前にとって大事になるのは16日や17日の練習だ。
アジア杯を戦う上で選ぶメンバーの中で、今後につながる若い選手も帯同させたいと思った時に、選ばれるようなアピールを16日、17日の練習で見せるべき。
どうしても日本代表に残りたい!というアピールは、スペイン語がわからなくてもプレーで表現できる。
お前の戦う日は18日ではない。16日17日の貴重なトレーニング時間だ。
指導者の父―。
その言葉をかけられるのは昌子源の父である、昌子力氏だけであろう。
日本サッカーの一角の第一線で指導を続けている指導者だからこそ、そういった言葉をかけられるのだと感じた。
今でも家に帰ってくると両親と3人で足でゴミをパスして蹴ってゴミ箱に入れたりして、一緒に笑う。
帰ってくると遊びに出ることも多かったが、今はアスリートとして自然にいろいろなことに気を遣うようになり、休みは休むために与えられたものだから、と 家からあまり出ることもなく実家でゆっくりした時間を過ごす。
息子がフワフワのサッカーボールを蹴った日からの写真をスマートフォンに取り込み
父の顔でその写真を見せてくれた姿は
息子を愛する父だった。
その一方で、指導者をしている父だからこその部分を感じることもできる。
父として指導者としての両方を兼ね揃えているのは、偉大な父だときっと源選手も感じていることだろう。
22歳となる年。
姫路獨協大学を指導する日々の中で、自分のチームで深く関わる選手たちは同い年の選手たちだ。
「子ども」という視点で、源選手と比べることもあるという。
鹿島アントラーズという常勝チームで、全試合に出場し、日本代表にも選出されたことで、評価は今とても上がっている。
それで伸びる鼻を今度はどうへし折ってやろうかなと、考えているのが楽しいんです。
そういった偉大な父は照れくさそうに、笑った―。
11月18日。
日本代表×オーストラリア代表が行われたヤンマースタジアム長居。
コンコースを歩いていると、ばったりと数日前にこの取材をさせていただいた昌子氏に遭遇した。
試合には出ないでしょうねぇと言いながらも、その姿を観に来た昌子監督。
ココの席にというから…と招待されたチケットを手に、はじめての日本代表としての姿を観に来ていた。
こちらまで心が温まるような、そんな感覚を感じながら、昌子氏と別れた。
後半試合途中、ベンチからスタッフがアップをするメンバーの元へと走っていく。
昌子源がユニフォーム姿となった時、昌子親子のことを想い、立ち上がって興奮したほどだ。
しかし、その少し前にケーヒルが交代で入り、ケーヒルが得点してしまうと、その交代はナシになってしまった―。
初めての代表デビューがもう少しで叶いそうだった。
地元関西で、父が見守るその場所で。
しかし、叶わなかった。
あと少し。
でも、それが今の昌子源の立ち位置なのだ。
まだまだ、これから。
きっと昌子氏はそう、言うであろう。
まだケーヒルは止められない、そう判断されたのだ、と。
昌子氏は「今」だけを考えての言葉は発さない。
指導者として、そして父として未来のある言葉をかけるのだ―。
でも、きっとユニフォームになった時は興奮したであろう。
そんな姿は見せなかったかもしれないが、来る!と思ったことであろう。
当然だ。親として嬉しくないはずがない。
そんな姿や想いを 少しだけの時間を共有した私でさえ、感じてしまうほどの素晴らしい親子愛を感じさせてもらった。
父は有数の偉大な指導者でありながら
サッカーという世界を強制することはなく家族として共に歩んできた。
サッカーという同じ世界に自然に身を置いているが、だからこそ心配も不安もあったこともある。
むずかしさがわかるからこそ、歯がゆいこともある。
それでも父として、子どもに幸せであってほしい
笑っていてほしい
それを第一に、未来への道にアドバイスをしてきた。
プロになるなんて思っていなかったが
今は日本代表に名を連ねるまでになったプロサッカー選手となった。
15歳で親元を離れて寂しさもあったが、高校を卒業してさらに遠い茨城県に息子は旅立った。
今はテレビの中の息子を観る機会も増えたが、鹿島というファミリーがいることが心強い。
サッカー選手を支える人々―。
指導者としての顔も持つからこそ、他の父にはない一面も持ち源選手の一番の理解者である父、昌子力氏。
昌子源選手を支え、育てた人であり、一番の身近なサッカー界の先輩なのかもしれない。
鹿島アントラーズを支える、安定した最終ラインを統率する昌子源。
これからが、たのしみな選手であり日本サッカー界を引っ張る選手になる素質のある選手だ。
父からもらった言葉。
トレーニングで言葉のいらないアピールをすることができたであろうか。
年末からアジア杯に向けたキャンプがスタートする。
その代表に昌子源という名前があってほしいと願う。
姫路獨協大学の試合を観ていると、厳格な姿で選手たちを観る監督の姿があった。
たくさんの関係者や選手たちが挨拶に訪れ、偉大な指導者であることがわかる。
だが、子どもの話をしていくとやはり父の顔となり、本当にたくさんの話をしてくれた。
強面と言われるけれど、よく話すんですよ、実は。
と笑うその姿は、子どもの話をしてやさしくなる父の姿そのものだった―。
昌子源のこれからに 父を重ね
父である昌子監督のこれから関わり育てる選手たちにも興味も持つことができる
そんな素敵な出会いとなった―。
11月16日。
話しが終わった頃には、もう真っ暗になっていた大阪の空。
サッカーボールを蹴る音はまだ、 続いていた―。