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【鹿島アントラーズ】 サッカー選手を支える人々 第3回~昌子源選手の父 昌子力さん 前編~

2014/11/30 12:27配信

飯守 友子 (CHANT編集部)

カテゴリ:コラム


本格的な冬がやってくる、と 冬の匂いを感じさせ冷たく感じる風が弱いながらに吹く大阪―。
グラウンドが近づくと、ボールを蹴る音と共に選手たちの声がこだまし、大学サッカー特有の選手たちが使うクリームの匂いを感じる。

11月16日。大阪経済大学を訪れた。
人工芝のグラウンドでは関西リーグ二部 大阪商業大学×姫路獨協大学の試合が行われていた。

久々に訪れた大学サッカーの現場。
学生サッカー特有の空気が気持ち良い。

日本代表がオーストラリア代表との試合を行うため、名古屋から大阪へと移動した、次の日。
私はある方にお話しを伺うために、その場所を訪れた。

目的は―。


10月の日本代表にはじめて選出されながらも、負傷により辞退せざるを得ない状況となり悔しい想いをした選手がいた。

迎えた今年最後の日本代表招集で、ついに選出を受けた選手。
なかなか次世代のセンターバックが育たない中で、注目される日本屈指といって良いだろう若き選手のセンターバック

鹿島アントラーズ 昌子源。


その昌司源選手のお父様である 昌子力監督は姫路獨協大学の監督を務めている。
サッカー選手を支える人々 連載第3回目は 昌子源選手を支えるお父様、昌子力氏にお話しを聞いた。

●強制することのなかった自然の中でのサッカー一家

昌子氏は源選手が生まれた頃にはもう、サッカー指導者としての生活をしており、サッカーが日常的に当たり前にあった家だった。
お母様も当時、まだまだ女子サッカーというものが認識されていない時代ながらも、ママさんサッカーをしており、家でボールを蹴るという遊びが昌子家では当たり前にあったという。

源選手のサッカーをはじめた頃の話を聞くと、昌子氏は自身のスマートフォンで画像を探した。
そして見せてくれたのは、源選手1歳半の頃の写真だった。
当時の写真をiPhoneに取り込んでいつでも見れるようにしてあったのだ。まだ話をほとんど聞いていない時間であっても、そこから深い愛情を感じた。

写真に写っていたのは1歳半の昌子源。
日付けも入っており間違いなく1歳半の男の子なのだが、フワフワのサッカーボールを楽しそうに蹴る姿が写し出されていた。
その姿はもちろんかわいいのだが、その姿の在り方に大人顔負けの部分があり驚いた。
1歳半の男の子はまだまだサッカーのことなんてわからないのは当然なのだが、両手でバランスを取りただ蹴るのではなく、プレーヤーとして蹴っているかのようなフォームなのだ。
その姿を昌子氏は見せてくれた。 すごいでしょと言って目を細める姿は「父親」そのものだ。

当たり前にサッカーというツールが生活の一部としてあった昌子家では、フワフワのサッカーボールを使い日常的にボールが家の中で飛び交う生活だった。
それは源選手だけに限らず、昌子氏と妻である源選手のお母様や、お母様と源選手、そして時には3人といったように誰が教えるでもなく誰が強制するでもなく自然にコミュニケーションのひとつとして昌子家にはサッカーが存在した。
幼稚園に上がると、家の中にある畳の部屋に布団を敷き、ボールを蹴ってキーパー役で布団の上にダイブしながらキャッチすることが楽しくなった。
最初は、布団に思い切り飛び込むことが楽しくゴールキーパー役が楽しかったのだが、その内蹴る側の楽しさも知った。
大人であるお父さんは当然、守備範囲が広く、なかなか蹴ってもゴールすることができない。
大人でもなかなか取れないボールを蹴るためには、隅を狙うことや、ボールスピードが必要だった。
遊びの中で、知らずの内にボールの蹴り分けを覚え、蹴ることが楽しくなっていったという。

本格的にサッカーをやるといったのは小学生になってからのこと。
同じ小学校の友達がサッカーをやるから。といった理由だった。

サッカー一家の昌子家だったが、父や母からサッカーやってみたら?といった声がけがあったわけではなかった。
本人がやりたいという意思も持つならやればいい。親として道を先に作ることはしなかったという。
それも愛情からくるものだった。

サッカーをはじめた源選手だったが、当時昌子氏は監督としてチームを率いており、土曜日や日曜日の子どもの試合を観に行くことはなかなかできなかった。
自分のチームの試合が最優先であり、子どもの試合には妻である源選手のお母様が応援に駆け付けた。

小学校4年生になると6年生の試合に出場したりと、能力が同年代から抜け始めると、選抜に選ばれることも多くなった。
当時のポジションはFW。現在の源選手は恵まれた大きな体格をしているが、当時は身体が小さかったという。
神戸市から兵庫県、そして関西選抜へとステップアップした源選手。
当時の同期であった杉本健勇(セレッソ大阪)や宮吉拓実(京都サンガ→現レンタルでカターレ富山)などはセレッソ・サンガのアカデミーへと進んだが、当時の関西選抜に選出された小学6年生の選手たちの大半が、ガンバ大阪ジュニアユースへと進んだ。
その中には宇佐美や大森といった現在もガンバ大阪でプレーする選手たちや、現在関西学生リーグ1部でプレーし関西学生選抜でも中心核となっている選手たちがたくさんいた。

当時から注目されていた宇佐美をはじめ、関西選抜の小学生の大半がガンバジュニアユースに進んだ頃。
プラチナ世代という言葉が生まれた。
これだけの選手たちが揃っている以上、ガンバジュニアユースの数年は安泰と言われるほどに、この世代は強力だと言われていた。
その一員として源選手は ガンバジュニアユースに属した。


●ぶつかった壁とサッカーから遠ざかった日々

中学3年。
源選手は大きな問題を抱え、ガンバジュニアユースを退団。
選手としてというよりは人間的な部分で、中学生という多感な時期に起こる問題を抱えていた。
父である昌子氏は、関西でも有数の指導者故にさまざまな話が耳に飛び込んだ。
指導者としての立場でいろいろな話が入ってくるのは仕方のないことだが、源選手の父としては自分の子どもと向き合うことが第一だと考え、外からの話よりも源選手から受け取れるものを優先し、言葉をかけた。

中学3年の途中でガンバ大阪を退団すると、その後サッカーをしない期間があった。
地元の中学に通いながら時間ができてしまった源選手。
多感な時期に今までになかった時間が与えられてしまうと、中学生の男子が流れてしまう道はできてしまっている。

全国大会で結果を残し、ガンバジュニアユースという当時関西では最強と呼ばれる集団の中でサッカーをしてきた選手だったという経歴を持つと、やはり知らぬ間に子どもといえどもプライドが生まれ、その場から離れた以上すぐに違うところでサッカーをするとう気持ちにはなれない。
父としてサッカーを強制することはしない。昌子氏のスタンスは変わっていなかった。
サッカーをするのが自分の子どもなのではない。
自分の子どもがサッカーをしていたのだ。

自分でサッカーをしたくないと思うのなら、サッカーはしなくていい。
そう思っていた。もちろん寂しい気持ちはあった。
指導者だからこそたくさんのサッカーをする子どもたちと深く関わり、サッカーをしてたからこそ得て成長する子ども達をたくさん見てきたからだ。
もちろん逆もたくさん見てきた。サッカーに挫折する子ども、性格的な部分で断念したり、チームメイトとうまくいかずに辞めていく子…そういった子どもたちもたくさんみてきた。
手を差し伸べたこともたくさんある。
しかし、自分の子どもには手を差し伸べる時は指導者ではなく「父」だ。
だからこそ、サッカーをすぐに源選手の目の前に出すことは避けた。
サッカーをしていなくても大切な息子には変わりはない。

当時、昌子氏はJFAのB級ライセンスを受講する人たちのインストラクターを現サンフレッチェ広島の監督である森保氏や、JFL所属レノファ山口監督・上野氏と共に務めていた。
その頃インストラクターのアシスタントとして参加していた中村氏が声をかけた。

源、どうするんですか?

中村氏は鳥取県の米子北高校のコーチを務めていた。
何も決まっていないなら、どうですか?
ボールを蹴らずに数か月来ているが、声をかけてくれた。
当時、米子北高校はプラチナ世代が在籍する関西から見ると、強豪とはいえずサッカー文化がまだまだの鳥取という地域であり、サッカーをする環境や選手の質も高くなかった場所だったが、
父として強い高校に行かせたいわけではなかった。
当然プロにする気なんて全然なかった。当時はサッカーボールすら蹴っていない状況だったのだ。
ただただ楽しい高校生活を送ってもらいたいという 父としての願いがあった。

このまま誘惑がたくさんある中で、ただなんとなく時間が過ぎ、流されその場だけの判断で人生を進んでほしくはなかった。
ただ純粋に高校生活を楽しく送ってほしい。
そのためには県外に出て、リセットするのも良いのではないだろうか。
上には上がいることを突き付けられ、多感な時期にさまざまなことが起こり、それが取り巻く環境から一度離れて高校生活を送るのも良いのではないか。

何度も奥様と話し合ったという。
もちろんまだ15歳の子どもを遠く離れた場所に、一人で出すのは親としてとても寂しかった。
特に母である奥様は、とても寂しいと何度も何度も口にしたという。

鳥取県の米子北という高校がある。
行くか?

父からの提案に

サッカーはやらんぞ。
まぁ一度行ってみるのはいいけど。

そう答えたという。


昌子氏は奥様に、源選手には言わずにスパイクと練習着を持っていってと頼んだ。
本人に見つからないように車のトランクに入れておけ、と。
ちょっと蹴ってみるかと誘われるだろうからその時に蹴れるように―。
そう言って用意して出発させたという。

お母さんと共に米子北高校を訪れた源選手に、やはりサッカー部の中村コーチは
ちょっと蹴ってみろ
と言った。

スパイクも練習着も持ってきていない。
と言った源選手に母が差し出した練習着とスパイク。

結果、久しぶりにボールを蹴ることになり、なにかが動いた―。


帰ってきた息子の顔には変化があったと 父である昌子氏は話す。
あきらかに行く前とは違った顔をしていた。
その顔を見て

行かせてよかった。
そう父は、息子の姿にしばらく心配をし緊張を感じた日々の中でホッと喜びと安心を感じたという。

俺、サッカーやってもいいよ。

照れくさそうにそういった源選手は、米子北高校に進学を決めた―。


あの日。
スパイクと練習着があったからこそ、ボールを蹴れた。

それを持たせてくれた父。
それを黙って持っていった母。

家族がくれた 大切なターニングポイント。

あの日がなければ、今の昌子源は誕生していないかもしれない―。


サッカーがある日常が当たり前のサッカー一家に生まれ
サッカーエリートのように言われてきた。

現にそのように伝えるメディアが現在も多いという。

しかし、そんなことはない。

この時、本人はもちろん、家族もプロになるなんて思っていなかった。

ただ楽しく純粋に子どもらしく、人生を楽しんで充実してほしいという親心と
一度は失いながらも、サッカーという自分にとって自然にいつもあった日常を取り戻し、サッカーやりたい・サッカーが好きなんだと思い出した少年の大志。


寂しく心配であり、不安も抱えながらも 子どもの未来を信じて送り出した、両親
一度リセットし、生まれ変わりをどこかで意識しながらまだ見ぬ新しい世界へと飛び出した、息子。

昌子源の二度目のサッカー人生がここからスタートした―。


(次回に続く)

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お久しぶりです。10数年前のガンバ?のグランド以来ですね。
先輩の活躍ぶり、心躍る思いです。
高3になる息子が、サッカー部です。私の間違った指導により、サッカーに対してか?
私に対してか?結局、サッカーに興味を失ったのか?
息子さんの源君のサッカー人生。応援しますよ。
私の名前は原榮です。
本当に光栄です?
いつまでも、応援しています。

姜です。  Good!!0 イエローカード0 2015/03/21|14:41 返信

「ボールを蹴らないか」と誘われたときのために、スパイクをしのばせる父の気持ちに涙が出ました。素晴らしい話を聞かせてもらい感謝します。

ユッキー8番   Good!!0 イエローカード0 2015/03/15|22:23 返信

米子に旅立つ息子にこっそりスパイクを持たせるシーンには涙が出ました。とても良い記事で、昌司選手のことが、昌司選手の家族のことが分かったような気がします。

ユッキー8番  Good!!0 イエローカード0 2014/12/10|22:16 返信

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