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【連載】 ~俺たちの総理大臣杯~ セレッソ大阪 山村和也選手 流通経済大学卒 【第3回】

2017/07/13 21:11配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム

~俺たちの総理大臣杯~
第3回は、セレッソ大阪所属 山村和也選手。

大学選手ながら各世代別代表の中心選手として活躍を重ね、さらにはA代表へも選出された。
W杯サポートメンバーとしてW杯に帯同するなど、大学サッカー界のみならず、日本サッカー界全体に大きな衝撃を与え続けた 学生時代。

山村和也選手にとっての、総理大臣杯とは―。
大学時代を振り返ってもらい、お話を聞いた。


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長崎県・国見中学・高校時代からその頭角を表し、当時U-18日本代表へも選出されていた山村和也選手のもとへ
流通経済大学・中野雄二監督と大平正軌コーチが足を運び、熱き未来を共にと伝えられたことで選択した流通経済大学への道だった。

「進学先をどうするかという時期に、(中野)監督と大平さんが足を運んでくれて。
すごく熱心に誘ってくれましたし、その気持ちに応えたいと感じたので、流通経済大学へ行くことに決めました」。

「環境面が整っていたことも魅力の一つだったことは間違いないのですが、決める時は実際に大学を見てから決めたということではなく、
熱心に伝えてくれた気持ちの部分に動かされたので、決めさせてもらったという部分が大きいんです」。
と、進路を流通経済大学へと決めた当時を振り返り 山村選手は話す。

U-18日本代表に選出された時から、背負った五輪代表となる世代であるということ。
4年後にはロンドン五輪という大舞台が控えており、五輪予選を含めたアジア、世界での戦いが待っていた。
それらを見据え選んだ進路先はプロではなく、流通経済大学だった。

大学に進学してからも、U-19日本代表へと選出され、チームから離れ合宿や試合で中心選手となりながら、大学でもポジション争いを戦った。
世代別代表に選出される選手であっても、中野監督は特別扱いはしない。
山村選手が入学した頃、流通経済大学は黄金時代ともいえる世代を迎えていた。

4年生にはキャプテンを務めた三門雄大(現アビスパ福岡)や、池田圭(現サガン鳥栖)、宮崎智彦(ジュビロ磐田)、染谷悠太(現京都サンガF.C.)等、
卒業時には13人もの選手がプロへと進むなどこれまでの歴史の中でも最多のプロサッカー選手が誕生した世代であったことに加え、他学年にも現在Jリーグで活躍する多くの選手が在籍していた流通経済大学サッカー部の競争は、熾烈で厳しいものだった。
トップチームでの出場が約束されていたわけではなく、当時サッカー部内のJFLで戦うチームでプレーをしながら、トップチームでも戦い、内容濃い大学1年目を過ごしていた。

その中で出場した、1年生時の総理大臣杯。
はじめての総理大臣杯を
「暑くてコンディション作りが大変だと感じる大会でしたね。大阪特有の暑さというものも感じました」
と、振り返る。

はじめての総理大臣杯は、1回戦にて中京大に0-1で敗戦。
優勝候補に挙がる強力なメンバーを揃えていたが、1回戦で敗戦という結果に終わる。

2年生時には世代別代表はU-20となり、五輪を見据えた強化により招集の回数も多くなり、大学チームと世代別代表という二重に戦う生活がさらに多忙化した。

「大学と代表では違うポジションでやっていたので(大学ではセンターバック、代表ではボランチ)それぞれ勉強になることが多く、自分に身に付いていく感覚を持ってやっていました。」
「大学ではセンターバックで使ってもらっていましたが、チャレンジするというところに、良い言葉をもらっていたなと感じます。
逆にチャレンジをしなければ、厳しい言葉をかけられることもありましたし。そういった良いところ、悪いところの評価をはっきりしてくれていたので、持ち味というものに自信を持って代表にも取り組めたな、と今振り返ると思いますし、
センターバックというポジションで、守るということはもちろん、前へ、という意識も強く持てるようになりました。そして、よりピッチ全体を見渡せるようになりましたね。それが今にもいきてるなと感じます」。

流通経済大学・中野雄二監督は、山村選手について
「山村はボール奪取の部分において、滑らず(スライディングせず)常体を保った上で、ボールを奪取するというところに強いこだわりがある選手なんですよ」

「観ている側は、試合中、体力の限りプレーしているという表情と動きを表に出して、派手に走ってスライディングをしたり、といった選手がわかりやすく目に見えて一生懸命やっている選手と感じるかもしれませんが、
山村は常に冷静。表情にはほとんど出さない。滑ったときには必ずボールを奪わなくてはならないというのが常識なので、リスクのあるそのプレーをほとんど選択しない。その一歩前で常体を起こした姿勢のままボールを奪取します。
いかに自分が次のプレーに動きやすい常体を保つか。常体を変えずにボールを奪い切ることで、視野も確保されますから」

「常に力の限り能力の限りやり切りながらも、絶対に苦しい表情は見せません。それが山村和也なんですよ」

「熱の部分を表情に表さないことで、山村は気迫が足りない、山村は頑張っていない というイメージを持たれてしまうのが、かわいそうでしたね。
でも、そうじゃない。顔には出ないし、努力してます!というのも出さない。それを当たり前だと思ってやっている。誰よりも努力をする人間でしたよ」。
と、話す。

(流通経済大学サッカー部 中野雄二監督 by2016.5)


3年生になると、ついにA代表。日本代表へと選出された。
さらには南アフリカW杯に日本代表のサポートメンバーとして選出され、南アフリカの地で戦う日本代表の練習サポートを経験した。

W杯時期に行われた総理大臣杯関東予選には出場できず、総理大臣杯本大会では再び1回戦敗退という結果に―。

迎えた、最終学年。
この年を中野監督は、
「山村、比嘉(現ジェフ千葉)、増田(現V・ファーレン長崎)と五輪候補に選ばれていた選手を3人抱えていた。Jクラブでも3人抱えるクラブはセレッソ大阪のみだった。
日本サッカーが五輪に出場し世界と戦うことでその先へ繋がっていくために、とにかく関塚JAPANへと協力し、五輪代表に良い状態で選手を送り出すことと、
ユニバーシアードで全日本大学選抜を優勝させること。(当時、中野監督が全日本大学選抜の監督、大平コーチが全日本大学選抜のコーチを務めていた)
チームを疎かにしたわけではないが、その2点を最優先させることを念頭に置いた年だったんです。
どちらにも山村は深く関係していたし、どちらでも精一杯、そして(流大トップ)チームでも精一杯やっていくれていた」と、振り返る。


「自分では気づいてなかったかもしれないが、五輪予選に全日本大学選抜、そしてチームで最上学年と、背負っているものが多かったんですよ。
チームから離れる期間も長かったりで、精神と身体がバラバラになってしまっているなと感じ、大変な時期を送っていたなと思いますね」。

「それでも山村は努力することを休めたりはしなかった。実際それだけのことを抱えて戦い続けることは簡単ではないですし、誰もが経験したことのないこと。」
「世間からの注目も日に日にどんどん強くなり、進路についても注目を受けていた中、それでも強く在り続けていた山村を尊敬しているんですよ」。
と、山村選手という存在に誇りを込めてひとつひとつ大切に話す中野監督。

チームと代表。2つのチームで戦う自身の切り替え等、意識をしていた部分は、と山村選手に問うと、
「特に意識はせず、チームが変わっても大学に戻っても自然な形でサッカーに取り組めていました。そうできるように整えてくれていたし、気を遣ってくれていたなと感じますね」。

そこに特別な言葉や話し合いが存在したわけではないであろうが、理解し合い信頼が在ったからこそ伝わっていたこと、と感じる中野監督と山村選手からの双方の談。
代表に全日本大学選抜に、そしてチームにと、多忙を極めた山村選手の大学生活には、相互する信頼があるからこそ成り立っていたのかもしれない。


最終学年で迎えた、総理大臣杯。
山村選手にとって、3回出場した総理大臣杯の中で一番記憶に残る大会だった。

1回戦は仙台大と戦い、PK戦まで縺れ込み、勝利を手にする。
山村選手が戦った総理大臣杯の中で、はじめての勝利だった。

中野監督はこの試合後のことを振り返る。
「PK戦まで戦ってお互いに体力の限りを暑い中で戦った苦しい試合だったんですよ。でもその試合後に、相手大学の選手たちが山村にサインを求めに来たんです」
「同じステージでやっている同じ年代の違うチームの選手に、サインをもらうなんてことはほとんどありえないことです。選手たちにはプライドがありますからね。でもその時は山村にサインを求めにきた。
それだけ大学サッカーで戦っている他の選手たちにとっても、憧れの存在となっている、そんな選手だったんですよ」。

迎えた2回戦。相手は関東で共に戦う、中央大学。

喫してしまった2失点。
その2失点に絡んだのは、山村選手だった。

「山村にとって総理大臣杯は、あまり良い思い出ではないのかもしれない」と中野監督。

山村選手は
「4年時の中央に負けた試合は、よく覚えています。自分が絡んでしまって負けてしまった試合で責任も感じましたね」。
「総理大臣杯という大会は暑い過酷な中での大会ですが、普段は戦えない大学と戦えるという面白さがありました。
同じ関東で戦うチームであっても、頂点を目指すトーナメントの戦いはちょっと違うと感じたし、サッカーの奥深さを改めて感じる大会でした」。

「結果として残すことはできなかったけど、それでも常に優勝したい、と臨んでいた大会でした」。

「代表とか手にしなければならない勝利がたくさんあった中で、大学は大学でしっかりとひとつひとつチームで優勝目指して戦っていました。
みんなで優勝したいと思っていた中で、自分が2失点に絡み責任を感じましたし、優勝したかったな…と振り返っても思いますね」。

成績としては残せた大会とは言い難いが、チームで頂点目指して戦った時間。
それは、かけがえのない時間として山村選手に刻まれていた。

日本代表や世代別代表で共に戦う選手たちは、そのほとんどがプロで戦う選手ばかりだったが、
その中、大学でプレーした山村選手は、大学で4年間を過ごしたことをプラスと感じていたと話す。

「世代別の頃はまだ若手ということもあって、プロで戦う選手はまだコンスタントに試合に出場できていない選手が多かった。
でも、自分は大学で出場機会を与えてもらっていました。プロと大学では違うという人もいるが、プロを相手にしても世代別代表に行ったときも、世界を相手に戦った時も感じたのは、劣らないスピードが大学にはある、ということでした。
高校から大学へ進学して、一番感じた違いの部分もスピードの部分。トップチームでの出場だけでなく、JFLでも試合に出してもらっていた時期もありましたから、
大人を相手にするJFLに、プロチームとの練習試合、そしてトップチームで出場するリーグや大臣杯など、本当にいろんな舞台でプレーし経験をさせてもらえた大学生活でした。
大学生活が、充実していたことで、世代別代表やA代表への道が開けたと思っています」。

「きっとそれがなかったら、また違っていたと思いますよ」。

大学時代に選出された、日本代表。
W杯という世界最高峰の舞台にも、サポートメンバーとして帯同した。

「当時のサポートメンバーは他に香川真司、酒井高徳、永井謙佑、そして山村。
他のメンバーは日本代表として常連となっていたり、日本代表にその後も何度か呼ばれたり。山村はその中で見劣りなんてしない『素質』『実力』がある選手なんです。
日本代表に選出されてきたメンバーには、同じ世代で全日本大学選抜のメンバーとして戦った選手たちもいるが、山村はその中でも一番ポテンシャルの高い選手なんです」。
と、中野監督は自信を持って話す。

現在、セレッソ大阪でトップ下起用され、多くの得点を生み出し、セレッソ大阪の好調に大きく関わっている山村選手の『今』を 中野監督は、しっかりと見つめている。

「山村の持っているものを引き出してくれているのは非常にありがたい。この先にも(日本代表)期待したいし、蒼いユニフォームを着てる山村がみたいですよ」と中野監督。

「年に1度は大学を訪れるのですが、その時に監督が自分のこの先を期待してくれていることが伝わってくるんです。
大学を卒業してもう長く経ちますが、プロとしてこうして今ピッチに立てているのも、大学の4年間があったからだと常に実感していますから」

「監督、コーチ…今もずっと期待し続けてくれているその気持ちに、応えたいです。行きたいですね、日本代表」。


青き空の下、遠くを見つめ想う大学時代。
「本当に、お世話になったんで」と笑顔を見せ、決意のように語った、改めて目指すステージ。


『気持ちに応えたい』
流通経済大学へと入学を決断した時に抱いた想いは、これから先にも続いている。

恩師と共に見据える未来に、絆が在る―。


(Writing Tomoko IIMori / Photo Yuka Matsuzaki)

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