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【鹿島アントラーズ】 ユニフォームを脱いだ中田浩二という一時代を振り返る 【7.5引退試合】

2015/07/14 23:41配信

Tomoko Iimori

カテゴリ:コラム


華の79年組。
この世代の選手たちは今年で36歳を迎える年となった。
サッカーを見ている人たちの中でも、この年代のことを知らないという人も増えてきたのかもしれないが、この世代はまだまだ日本サッカーで活躍し続けてほしいと願う年代だ。

日本サッカー史上、世界に一番近づいたこの世代を「黄金世代」と指すが
昨季、この黄金世代から日本サッカーを引っ張り続けた偉大な選手が引退を決めた。

中田浩二。

高い人気を誇った日本サッカー界が育てた優秀な選手の一人。
世界へと挑戦したこともあったが、Jリーグでは鹿島アントラーズ一筋15年。
若き頃から日本代表で活躍し、若手ながら日本代表の主力である印象が強かったところからあっという間にベテラン期を迎えていた。

世界で数多く戦い、代表でもクラブでも数多くのタイトルを経験してきた。
愛する鹿島アントラーズでもたくさんのタイトル獲得に貢献し、たくさんの経験を重ね、鹿島の若い世代へと繋げた 中田浩二の引退。

まだひとり。
偉大な選手がユニフォームを脱いだ―。


●黄金世代を象徴する一人の選手 中田浩二

中田浩二という名前が全国に響いたのは高校3年生時。
学校数が日本で一番多く、地区予選を勝ち上がってくるだけでも過酷な東京都代表として、名門帝京高校でキャプテンマークを巻いていた中田浩二。
高校サッカー一番の夢の舞台でもある全国高校サッカー選手権大会で決勝へと駒を進め注目を集めた。

決勝は大雪によって国立の芝の緑が一切見えないような舞台。
雪でうまくボールも転がらない中で、大会2連覇中の東福岡を相手にした帝京高校。
試合は帝京が握った時間もあったものの東福岡が勝利し3連覇を達成。その東福岡で10番を付けチームの中心的存在を務めていたのが鹿島アントラーズでも同期となる本山雅志だった。

雪の中、うなだれる姿がいまでも印象に残っている。
しんしんと降る雪の中で、帝京のキャプテンは悔しさを噛みしめていた。

鹿島アントラーズへと入団した中田浩二。
同期には本山雅史、小笠原満男、曽ヶ端準といった次世代の選手たちが集結していた。
しかし、すぐに試合に出られたわけではなかった。タイトルを獲るようなクラブである鹿島アントラーズの選手層は厚く、定位置を獲るのは当然のことながら簡単ではなかったからだ。

中田浩二はボランチの選手だった。
そのポジションは引退まで変わらなかったが、日本代表では違ったポジションを任されたことは今となっては異色といって良いことであった。
しかしその起用によって中田浩二の転機となったのは確かだ。

当時、中田浩二が名を連ねた世代別代表。
鹿島からの同期の3人含め、小野伸二や稲本潤一、遠藤保仁、高原直泰、播戸竜二など今となってはサッカーを好きな者ならだれもが知っている名前であろう選手たちが集結し、戦っていた世代だ。
その世代が劇的に変化したのは、日本A代表の監督を務めたフィリップ・トルシエが指揮を執ったことだった。
トルシエ監督には明確なサッカーがあった。
その名もフラット3。3バックの選手たちがラインディフェンスをするという明確なシステムが存在したのだ。
その「型」にはめたサッカーが当時の日本のサッカーには適していた。

A代表がトルシエのサッカーで成功しはじめてていた頃、同時にU-20世代、そして五輪世代でもフラット3を採用。一貫してトルシエ監督が指揮を執った。
スケジュール的にはタイトだったであろうが世代別から一貫したサッカーの浸透をしたことで、日本サッカー全体の強化へと繋がり、若い選手たちにも日本代表で行うサッカーが根付いたのだ。
その先駆けとなったのがU-20代表が挑んだ ワールドユース選手権だった。

ワールドユースは世界大会ではあるものの、Aマッチではなかったため海外の主要リーグで試合に出ているような世界各国の若き選手たちは出場していなかった。
それでもその後、その国の主力選手となり世界的な活躍を魅せた選手たちが多数いる中で、日本は結果を残し上へ上へと勝ち進んだ。
イングランド代表を下し、さらにはポルトガル代表までを下し、あっという間に決勝まで駒を進めた。
決勝ではスペインに0-4という結果となったものの、国際大会で日本が準優勝という結果を残したことは当時大きなニュースとなった。

世界に一番近づいた日。
その中でトルシエのフラット3を表現するに起用された選手、それが中田浩二だった。
本来のボランチの位置ではなく3バックの一角として起用された中田浩二は、世界を知ることとなった。

世界で結果を残し、その後は五輪代表として松田直樹や中田英寿らと共に戦った。
ベスト8にてPK戦で敗退となってしまったものの、その存在感は強く日本サッカーが大きく前進していることがわかる五輪代表の挑戦だった。

その後、日本代表として日韓W杯をめざし積極的に国際大会への参加や遠征が組まれた。
世界の強豪国と対戦できる希少な機会を得て、フラット3の一角として中田浩二は国際経験を重ねた。
トルシエサッカーに無くてはならない替えのきかない選手となり、何度も選手たちとの確認作業を経てフラット3を完璧な状態に仕上げていった。
この時中田浩二はまだ23歳。
日韓W杯。ホームで戦うW杯を経験した。

日韓W杯後、日本人選手の評価は高くなり多くの選手が海外へと挑戦したが、中田浩二は鹿島アントラーズにてJリーグで活躍をつづけた。
靭帯断裂の大けがを負い長期離脱を経験し苦しい時期を過ごしたものの、見事復帰。

その後、トルシエが監督を務めるフランス・マルセイユで海外に挑戦する道を選択した。
フラット3の一角として世界のベスト16に貢献した中田浩二を評価し、トルシエ監督が中田浩二を求め、フランス・マルセイユへと旅立ったのだ。
しかし、サイドバックを任されそのポジションをこなすことができず、なかなか結果を出すことができなかった。
成績不振もありトルシエ監督が解任されると中田浩二の出場機会も激減してしまった。
イスラエルのクラブやウクライナのクラブからのオファーがあったものの、新天地として選択したのはスイス・バーゼル。
現在、柿谷曜一朗が所属しているクラブだが、日本人選手としてはじめてスイス・スーパーリーグへ挑戦したのは中田浩二だった。

当時、日本人選手はまだ中盤の選手だけが世界で評価される傾向にあったものの、中田浩二はセンターバックにて定位置を掴むと、活躍しその名を刻んだ。
スイスのリーグは世界の主要リーグへのステップアップリーグのような位置づけとされているが、スイスサッカーはJリーグよりも数段質が高く、未来の世界のスターがたくさん在籍する中で、中田浩二は不動のレギュラー選手として活躍し、バーゼルとしても重要な主力選手として位置づけていた。
フランスでは結果を残すことができなかった中田浩二だったが、スイスの地でタイトルを手にするなどその存在感を示し、その経験を持って鹿島アントラーズに復帰を決めた。

海外移籍後、何度かJリーグ復帰を模索していた中田浩二だったが鹿島アントラーズ以外には目もくれなかった。
鹿島に戻れないなら海外でやる。その二択しか頭にはなかったのであろう。
鹿島アントラーズは中田浩二が戻るべき場所として位置づけていた。
その他のクラブからのオファーがなかったわけではないであろう。非公式なものを含めると鹿島以外からの話もあったはずだ。
しかし、その道には中田浩二の意思はなかった。

●鹿島以外は考えられなかった変わらぬ鹿島愛

中田浩二は鹿島アントラーズで多くのことを学んだ。
タイトルを多く獲得した経験のあるクラブであり、それに満足することなく常にタイトルを目指すクラブである鹿島アントラーズ。
いくつタイトルを獲っても、そのひとつひとつに同じタイトルはない。
努力や経験、技術や能力だけでは、いくつものタイトルを手にできないであろう。

なぜ鹿島は強いのか―。

それを中田浩二は身をもって経験してきた選手だ。

どうしてもこの試合に勝たなければならないという試合を落とさないこと。
それが鹿島のひとつの強さの象徴でもある。
それを表現することができたらと、どのチームでも理想だと思うが、
それを確実に重ねてタイトルを獲ってきた鹿島の強さは、簡単に創られたものではない。

鹿島の方針であるジーコ・スピリッツ
だれが出ても鹿島のサッカーを表現できること
日本代表で得てきた世界をうまく浸透させ全体が向上すること

その中心に、若き頃から中田浩二がいた―。


35歳を迎えた、中田浩二が選択したのは
現役引退。


ユニフォームを脱ぐ場所は、鹿島アントラーズ以外に考えられなかった。

選手としての戦力としてももちろん、その名声も含めた中田浩二を
獲得したいとする他のクラブもきっとあったことであろう。

しかし、中田浩二は鹿島のユニフォーム以外を着ることは考えられなかった。
鹿島で現役を引退する。
鹿島で始まり、鹿島で終える。

そんなサッカー人生を過ごし、最高の幸せを噛みしめた中田浩二は 現役を引退した。


引退をしてからも鹿島アントラーズに関わり続け、これからは鹿島アントラーズのためにピッチの外から支える役となった。
日本サッカーの中心となった若き日からいつの間にかベテランとなり、黄金世代と呼ばれた選手ももう35歳を過ぎた。

世界に一番近づいた選手の一人が
日本代表で、そして世界のリーグで日本の可能性をとことん追求してくれた一人の選手である。

7月5日。
鹿島のそして日本代表の偉大なる先輩である柳沢敦
そして同じく黄金世代の一人である新井場徹と共に
引退試合を迎えた。


カシマスタジアムで最後のユニフォーム姿。
誰もが中田浩二にゴールを決めさせようとする中、なかなか決められずたくさんの人が笑顔で背中を押し続ける試合となった。

たくさんの先輩たち、同期、仲間と共にボールを蹴りながら
愛するサポーターの大声援を受け、中田浩二は走った。


日本サッカーのひとつの歴史が深く刻まれ、中田浩二という鹿島の歴史、そして日本サッカーの歴史が幕を閉じた。

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あの安定感のあるディフェンスが好きでした。お疲れ様でした。

名無しさん  Good!!0 イエローカード0 2015/07/15|09:49 返信

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