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【浦和レッズ】 16年目を迎えた鈴木啓太 継続するプライドと背負った覚悟 【J1】

2015/02/06 11:07配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム


昨年。
リーグで常に首位に立ち続けたが、最後の最後で優勝を逃すという厳しく悔しい最後を迎え幕を閉じた2014。
誰よりも悔しい想いを感じた一年だった。

優勝という目標をただ掲げたわけではなかった。
優勝という重く大きな目標を背負った形で、スタートした浦和レッズ。

必ずこのメンバーで優勝をと意気込んで入ったシーズンで、まさかの大問題が起きた。
自分たちを奮い立たせてくれる存在であり、ファミリーであるはずのサポーターから起きてしまった大問題。
その結果、初の無観客試合という形で行われた試合を経験した。

ボールの音と選手の声が響くだけの公式戦は 二度と味わいたくはない場所だった。
応援してもらえることは当たり前ではないことは理解している。
ただ、あの場所は自分たちの場所ではなかった。背負った重みがさらに増し、だからこそ絶対に優勝して終わらなくてはいけないとファミリーの侵した間違いをも背負ったシーズンだった。

しかし―。

最後で逃してしまった大きな覚悟。
掴みかけていたと表現しても良いであろう頂点を 掴むことができなかった昨年。

そこで「切れる」ほどの精神であれば、日本で最高峰といって良い質の高い選手たちが所属する浦和レッズではプレーできない。
プロという意識を高く持ち、日々戦っている浦和レッズだからこそ 少しも気を抜いてはいられないのだ。

課せられた目標は「タイトル」。
簡単じゃないことは充分に認識した。
どんなに勝ち点を重ねても安心なんてできる時間はないと知った。

だからこそ、今年は―。
浦和レッズの目標は常に優勝だけではない。
アジアで頂点に立ち、世界と戦うことを目標としている。

今年はACLへの出場権を得ているだけに浦和レッズはJクラブの中でもかなり早いスタートを切った。
ACL、そしてJリーグの頂点へ向けて。
2015シーズン 浦和レッズは動き出した。

浦和レッズの象徴―。
浦和レッズが浦和レッズらしくあるために 自然な形で表現するに欠かせない存在がそこには在る。

気づけば16年目を迎え最古参となった。

鈴木啓太

心配される不整脈は治療という形で向き合うこととなった。

鈴木啓太はシーズンインにしっかりと芝の上に立っていた。


●エリートという言葉が似合う 鈴木啓太

エリート。
鈴木啓太にはそんな言葉が似合うかもしれない。

サッカー王国静岡に生まれた鈴木啓太は、サッカー少年たちの憧れの場である全少こと全国少年サッカー大会で準優勝という結果を出したメンバーの中にいた。
そしてサッカー王国静岡の中でも名門中の名門である東海大一(現・東海大翔洋)中に進むと全国中学校サッカー大会で見事優勝という結果を残した。
高校もそのまま東海大一でプレーをし静岡の強豪校の一角として、チームとしての存在感はあったものの、鈴木啓太という一人の選手はそれほどクローズアップされていなかった。

経歴だけをみると、エリートという言葉が似合うのかもしれないが、当時はエリートという選手として名を挙げられることはなかった。
静岡という地域はそんなに簡単にエリートとして認めてくれないサッカー王国という土地だ。

浦和レッズが鈴木啓太に出会ったのはこの頃だった。
浦和のスカウトが観に行ったのは他の選手。観に行ったのは静岡でも有数の有名選手だったが、鈴木啓太を見て、絶対にこの選手だと感じオファーを出した。

それまでプロになるということを意識していなかったわけではなかったが、夢が突然目の前に現実として現れた。
当時、攻撃的なMFとしてプレーしていた鈴木啓太の憧れる選手は 小野伸二。
同じ静岡出身で静岡県内では学生時からスターだったその存在に憧れを抱いていた。
その小野伸二がプロサッカー選手としてスタートした浦和レッズから、未来を期待された。

それまで世代別代表とは無縁のサッカー生活を送ってきたが、浦和レッズに加入しプロサッカー選手として成長し始めると 五輪を目指す世代別代表に呼ばれた。

狭間の世代。
そう呼ばれていた当時の五輪を目指す代表は、どうしてそんな名が付いたのかと今振り返ると濃い世代だった。
狭間と呼ばれた時期から、個々の選手たちが少ない日数の中で実力を付けていった。短い期間で実力を付けていく選手たち。
松井大輔や山瀬功治、石川直宏に大久保嘉人、駒野友一に森崎和幸、森崎浩司、阿部勇樹、田中達也…今もなおJリーグを盛り上げる選手たちがその時のメンバーだった。
鈴木啓太はその世代に選出され、アテネ五輪を目指す予選ではキャプテンを任されるほどになっていた。

決して鈴木啓太は巧い選手ではない。
しかし、危険察知能力があり身体を張りフィジカルで相手に勝る。献身的なプレーでチームに貢献し続けた。
狭間の世代と呼ばれたチームはいつしか、日本のサッカーファンたちを取り込み満員の国立競技場でアテネ五輪行きを決めた。

五輪代表世代は2つの世代から選出されることとなるが、ひとつ下の世代から台頭してきた今野泰幸がボランチとしてとても能力の高いプレーをみせた。
最終予選日本ラウンドでは田中マルクス闘莉王が負傷交代となり阿部勇樹がセンターバックでプレーすることになったものの、ボランチには能力の高い選手がひしめき合う状況であり、本大会へのメンバー発表に注目が集まった。

結果的に、オーバーエイジ枠で憧れの選手である小野伸二の招集が決まり、鈴木啓太はキャプテンを務めたチームながら本大会には選出されずという現実を突き付けられた。
五輪を掴むために戦った、予選の苦しい日程と緊迫した緊張感でいっぱいだった最終予選ラウンド。
キャプテンとしてチームを引っ張った鈴木啓太は 落選した。

その発表がされた後のナビスコ杯。
その時の鈴木啓太の気迫あふれるプレーは次の目標に向けて動き出していた動きだった。
同じく落選してしまった山瀬功治も同じく、大爆発という試合だった。
選出しなかったことを悔やむぐらいのプレーを
そう伝わってくるほどの気迫は、彼らの強さを示していた。

五輪代表への夢は落選と共に終わってしまった。
目指すはただひとつ。A代表だった。

●オシムに愛され認められた 日本代表として重ねた経験

2006年。
ドイツW杯では悪夢のような戦いをし、終わってしまった日本代表。
まだ日本代表は三度目のW杯出場だったが、それを考慮してもそのひとつひとつの試合からチームとしてのメッセージは伝わることなく、厳しい結果となり終わってしまった。

選手の能力の高さとしては当時過去最高と呼ばれるメンバーであったが、チームとしてうまく機能することなく、選手個々のメンタルや感情などによってバラバラな印象を受けるほどに空中分解してしまったチームではW杯を戦うことができなかった。
日本代表の中心核であった中田英寿がわずか30歳ながら引退を表明し、これから日本代表はどこへ向かうのかという難しい第一歩。
日本サッカー協会はジェフで結果を出し日本サッカーに新たなスパイスを投入した イビチャ・オシム氏に後任監督を依頼し、オシムJAPANが発足した。

オシム監督はさまざまな選手を招集したが、鈴木啓太をキャプテンに任命すると鈴木啓太をすべての試合で起用した。
オシムサッカーにおいて鈴木啓太は心臓だった。
日本代表選手として、そしてまだ若きキャプテンとして当時の鈴木啓太は重いものを背負っていたであろう。
浦和レッズでもその献身的なプレーで活躍を安定的にみせ、2006年2007年とJリーグベストイレブンに選出され、チームの成績も初のJリーグ制覇や天皇杯優勝、そして日本のクラブではじめてACLで優勝するなど、日本を代表するクラブとなった浦和レッズで鈴木啓太は飛躍していた。

しかし、その後体調を崩し離脱すると定位置を失い、試合に出場していないことで日本代表からも当然遠ざかった。
難しい時期を過ごし、厳しい期間だったことだろう。
チームではキャプテンに就任し、浦和を引っ張っていく存在にまたひとつ階段を上った形となったが、スタメンで出場する回数が減った。
それでも鈴木啓太という存在は大きかった。浦和には鈴木啓太がいる。それが浦和らしさの象徴だった。
途中出場やナビスコ杯での出場などでも鈴木啓太の存在感は浦和らしい試合に結びつく。


浦和レッズの練習はいつも意識が高く、どのチームを取ってもトップクラスの練習をこなす。
少しでも気を抜けばすぐに次に控える選手にポジションを奪われる。その緊張感が毎日続く中でサッカーをすることが浦和レッズの選手であることの証なのだ。
その高い意識と質の高い競争の土台となったのは 鈴木啓太だったのではないだろうか。

試合にいつでも出る準備をする、いつでもレギュラーの選手を追い抜き試合に出れるとアピールをする。
他の選手たちのサポートも忘れない。気配りも忘れない。
キャプテンらしい姿を 鈴木啓太は持っていた。

その後キャプテンが阿部勇樹に移ることになるが、それでも鈴木啓太はキャプテンという立場がなくなったからといってその立ち位置に変化はない。
いつでも他の選手のサポートをこなし、若い選手たちに声をかけ積極的にプレーについての意見や経験を伝える。

数年前、キャンプでみた鈴木啓太の姿は「鈴木啓太」らしい鈴木啓太だった。

自然と主力選手たちの輪と若い選手たちの輪に分かれていた中で、一人鈴木啓太は若い選手たちの輪の中へ入りいちばん大きな声を出してリラックスした雰囲気でボールをまわしていた。
ゲームを取り入れた練習になると怒声に近い声で要求する。時に厳しい言い方で叱咤する姿も見られた。
しかし、その後の給水タイムでは自分から近寄り落ち着いた状態で身振り手振りを使いながら説明し、最後は笑顔で選手の肩を叩く。

浦和レッズのチームとしてのバランスを常に感じながら、自分で動きそのバランスを取る。
そのためには時に厳しく、時に優しく、時に天使にも悪魔にもなる。
浦和レッズという空気を一番知っているからこそ、浦和レッズを創り上げる。

浦和レッズらしさは鈴木啓太らしさでもあったのだ。

●まだ消えぬ灯す闘志とPRIDE OF URAWA

昨年、鈴木啓太の体調不良が発表された。
体調不良の原因が心配されたが、その原因は不整脈。

不整脈は時に命に係わるような危険性を持つこともある。
心臓を止めてしまうこともあるものさえある。

公式な発表はないが、さまざまな病院でさまざまな検査をしたことであろう。
不整脈は心臓に大きく関わる疾患であるが故に、カテーテル検査などもしたと考えられる。

カテーテル検査は心臓の検査としてはとてもポピュラーな検査として医療では使われているものの
実際に受けるとなるとかなり不安を抱いてしまう検査であり、精神的負担は大きい。

サッカーのために
家族のために
といった強い意志を持っていても不安になるであろう心臓という命と直接かかわる臓器との 向き合う覚悟。

体調不良という言葉では片づけられないほどの不安と、先のことがどうなるかわからない不安に苦しんだことであろう。

オフ中に手術を受けるのではないかという憶測もあったものの、投薬治療で不整脈の経過を診るということで落ち着いたようだが、不整脈を抱えたままプレーすることは簡単には想像できない覚悟が、きっと存在する―。


浦和レッズでサッカー選手としてプレーすること
昨年優勝を逃した悔しさをピッチに立てない悔しさと共に 浦和を愛する男だからこそ強く味わったこと。
今年こそはという想い
ACL優勝経験のある選手として、ACLという厳しい戦いで力を出したいという決意が強くあること。


ケガが付き物のサッカー選手だが、内科的な身体の不調は一般の人と同じく、不安が重なるものだ。
しかし、それでもプロとしてサッカー選手を全うすることを決めたからこそピッチの上に立つのだろう。
その決断は当然簡単なものではないはずだ。
愛する家族が存在し、幸せな日常が当たり前ではないと病気を抱えると知ることにもなり、だからこそかけがえのないものだと感じ、人であることの自分、夫であり父であることの自分、そしてサッカー選手としての自分にたくさん向き合った時間を過ごしたのではないだろうか。


キャンプの初日から、ピッチの上に立っている鈴木啓太。


今年も浦和レッズの一員として、難しいと痛みが伴うほどに知った「タイトル」を掴むために、向かう。
信愛なる浦和を背負うメンバーと共に、足踏みを揃えシーズンをスタートさせた。


サッカーエリート
そう呼ぶ人もいるかもしれない。
エリートという言葉が似合う、サッカー選手1かっこいい男だからこそ、なおさらだ。

しかし、鈴木啓太はエリートではない。
誰よりも努力を重ねてきた選手
という表現が適切であろう。

浦和レッズが浦和レッズらしい戦いをしたとき。
そこには鈴木啓太らしさがどこかで光っていることであろう。

強く輝くその光は、大きな浦和レッズというプライドを背負った赤き 鈴木啓太の背中から放たれる―。


今年の鈴木啓太も 鈴木啓太らしく浦和レッズらしく 躍動するはずだ。

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