【京都サンガ】 山瀬功治という日本サッカーの歴史 【後編】
2014/07/08 19:42配信
カテゴリ:コラム
度重なる大きな怪我。
両ひざの十字靭帯断裂はサッカー選手の中でもなかなか経験しないものだ。
そんな中、山瀬は第3のクラブへ移籍する。
札幌時代、山瀬を獲得し成長させた岡田武史氏が山瀬を横浜Fマリノスへ呼び寄せたのだ
マリノスが用意した背番号はなんと「10」。
中村俊輔が背負っていたマリノスのとって大切な番号だった。
浦和で8を背負い、マリノスの10を背負う。
小野伸二の後、そして中村俊輔の後を任される山瀬はそれだけ大きな期待を背負い、そして認められていた。
しかし、リハビリを続ける中で今度は椎間板ヘルニアが悪化。
手術を受けることとなり、山瀬はまたも大きな怪我に悩まされることになった。
しかし、もうこの時には山瀬はどんな怪我であっても復活する選手として信用されていた。
大きな怪我をするとコンディションが元に戻らない選手もいるが、山瀬は確実にそして的確に自分のプレーの元へと帰ってきた。
そしてさらにそのプレーに磨きをかけ、強くなるのだ。
完全復活となったのは2006年中盤のこと。
やっとベストコンディションと呼べる状態となってすぐに、日本代表について初招集される。
当時の監督はオシム監督。
オシムイズムに刺激を受けた山瀬はさらに自分の引き出しを増やす。
いったんは日本代表のエンバーから外れたものの、次の年にはまた招集され、2008年には日本代表の常連といっても良いほどに山瀬は招集され、試合にも出場した。
五輪に出ることができなかった悔しさ。
あまり表情に出す選手ではないものの、自分たちの世代を引っ張っていた一人であり一時は10を背負っていた選手だっただけにひとつの目標を達成できなかったことが厳しい現実として残っていたはずだ。
度重なる大きな怪我から何度も復活を果たし、やっと手にした日本代表。
目指すは2010南アフリカW杯だった。
しかし。
その後山瀬は度重なる怪我によってコンディションを崩し、出場機会は激減した。
そしてチームは残留争いへ。
出場機会の減った山瀬は、日本代表からも遠ざかることとなり山瀬功治の南アフリカへの挑戦は絶たれた。
マリノスからの戦力外通告。
山瀬は第4のチーム川崎フロンターレへと人生を移す。
●感じた節目
川崎フロンターレに移籍をした山瀬はプレーが変わったわけでもなく、日本代表という場所をあきらめたわけでもなかった。
しかし、ずっと山瀬を見てきたものならわかる。
フロンターレに移籍をしてから山瀬のなにかが変わったのだ。
ずっと背負ってきた重いものを下ろしたようなそんな感覚に見えた。
自分のサッカー人生を自分のために存分に楽しむ。そんな姿に見えたのだ。
それは川崎フロンターレというチームがそうさせたのかもしれない。
今までにないほどにやわらかく、そして良い意味で型が外れたそんなプレーを魅せた。
フロンターレ特有のさまざまなホームタウン活動によって地域やサポーター、そして子供たちと触れ合う機会が多かったこと。
そして東日本大震災が起き、その復興支援活動をフロンターレが積極的に行いそこで、酸化し感じたこと―。
そういったものが山瀬を変えたのかもしれない。
サッカーを楽しむ山瀬がそこには、居た。
しかし、いつごろだからだっただろうか。
山瀬の表情が曇りはじめたのは。
あんなに楽しそうだった山瀬の表情が曇り、ゴールをしても自分に納得していない表情を見せるようになっていた。
出場機会が激減し、途中出場で結果を出しても笑顔も見せない。
山瀬は新たな旅立ちに出るのではないかとはじめて、予感させるそんな空気だった。
●気持ち新たに。昇格への挑戦。
そして山瀬は京都サンガへの移籍を決める。
フロンターレからは事実上の構想外通告を受けた。金額提示はあったものの選手として構想外だと示された。
そんな時、京都サンガから32歳になる山瀬に3年契約という「期待」を示した。
これはサッカー界ではかなり異例のことだ。
30歳を超える選手に3年契約をする、それも怪我が多いとされる山瀬に3年の提示をすることは京都の「本気」と「誠意」を示す形となった。
その契約内容は山瀬の心を動かした。
それまでJ1でプレーすることを基本ラインにプレーしていたはずだ。
しかし、京都はこの前年自動昇格の2位に最終節の前節までは位置していたものの、最終戦でその年J2で強さをみせ昇格をすでに決めていたヴァンフォーレ甲府に引き分け。
そして3位にいた湘南ベルマーレに最終節で逆転されてしまい自動昇格を逃してしまい、その年から導入されたプレーオフでも3位という一番勝ち点が多い立場でのスタートとなりながらまさかの敗戦。
あと一歩。本当にあと一歩のところで昇格を逃してしまった。
だからこそ、京都の昇格への強き想いが山瀬に託される そんなオファーだった。
それは山瀬にも届く伝わる形となり、3年を見据えて必要とされることは光栄、と移籍を果たす。
山瀬が京都で付けた番号は「14」。
この番号はアテネ五輪候補の代表から大けがをして一時外れ、10を松井に奪われた後、山瀬がつけた番号だ。
悔しさ残る番号。
そして当時の山瀬がここからまた出発しようと決めた番号だ。
だからなのかもしれない。山瀬が14を選択したのは。
再出発。それを意味する番号だったに違いない。
山瀬功治が「京都の山瀬」になるのに時間はかからなかった。
ユースから育てた選手が多く、若い京都の中でベテラン山瀬はどのように融合するのかと心配されていたがそんなことは無用だった。
周囲への影響力を持ち、そして山瀬は京都に馴染もうと積極的にプライベートでもチームメイトと過ごした。
家族ぐるみの付き合いをし、京都という街を全身で感じるほどに意識的に浸透させた。
昇格請負人として山瀬は京都サンガというチームに自分の経験のすべてを注いだ。
目指すは昇格。今年こそは絶対という想いが強いからこそ、呼ばれたことを自覚しシーズン中プレーしたであろう。
そして迎えた最終決戦。
この年もプレーオフへと進んだ京都は日本サッカーの聖地 国立競技場にて徳島ヴォルティスと対戦。
相手はリーグ4位のチーム。
前半から山瀬を中心に京都の攻撃で徳島に襲い掛かった。
開始から20分ほどはこの試合で決まるという特殊な試合のためかお互い良さを出せずなサッカーをしていたものの、その後試合を握っていたのは明らかに京都だった。
京都が先制点を獲ることで徳島の状況をかなり厳しくさせることができる。絶対に欲しかった先制点を果敢に獲りに行っていた。
何度も訪れる決定機に先制点のにおいがしてきた中で一瞬の流れから徳島に先制点を許してしまうと、その後さらに追加点。
前半だけで2点ビハインドという状況となってしまった。徳島は2点とったが、徳島のシュートはわずかに3本。
後半にもビッグチャンスが訪れるものの物にできなかった京都はまたしても昇格というたくさんの人たちの願いを落としてしまうこととなった。
試合後の挨拶まわり。
誰よりも深く、そして長く頭を下げていたのは山瀬だった。
その表情は厳しく、そして申し訳ないという気持ちが滲み出ていた。
今年こそは!と2012年の昇格を逃したところから1年間。チーム全体で強く目標にしてきた絶対的な未来。
それを聖地国立で逃し、集まった京都9000人のサポーターに挨拶する背中は今も忘れられない。
宿命を逃した。
そう物語っていた背中だった。
2014年。
山瀬功治は京都サンガのキャプテンに就任した。
2年連続で昇格を逃し、主力選手も数人移籍してしまった京都。
再出発をするにはあまりにも重いものを背負ってしまった昨年の結果。
それでも試合はやってきて、シーズンをまた信じて戦わなくてはいけない。
そんな苦しい状況だからこそ、ベテラン山瀬がキャプテンとしてチームをまとめる役となった。
山瀬功治のキャリアは今年で15年目。
チームはコンサドーレ札幌、浦和レッズ、横浜Fマリノス、川崎フロンターレ、そして京都サンガと5チームを経験した中で、山瀬のキャプテン就任ははじめてのことだ。
今まで副キャプテンは何度も経験してきたもののチームのキャプテンとしてシーズンを過ごすのは初めてのこと。
山瀬功治がキャプテンという新たな山瀬のサッカー人生の挑戦が今されているのだ。
京都は今年、シーズン序盤から思うような結果を残すことができず、監督をはやい段階で交代するという措置を取った。
そして川勝新監督が就任すると先日発表があった。
コーチの森下仁志氏は山瀬が札幌時代にプレーしていた時のキャプテンであり、お互いのプレーヤーとしての考え方や人間性を十分に理解し合っているはずだ。
札幌時代、降格争いをしている中キャプテンであった森下仁志は毅然としながらもチーム状況を立て直そうとさまざまな選手に声をかけ青空ミーティングをしていた。
その中で、一人黙々とリハビリをこなす若き頃の山瀬に声をかけ、笑いながら芝の上でサッカーの話をしている時間はお互い厳しい状況を忘れられる時間だったのかもしれないなと今になって思う。
良き理解者がコーチとしてチームにいることも、きっと山瀬の京都での日々にプラスを与えてくれているに違いない。
山瀬功治は今年33歳を迎える。
京都と契約して2年目。当然今年の課せられている目標もJ1昇格だ。
五輪も経験していない。
W杯も経験していない。
しかし、山瀬功治は日本のサッカーを引っ張ってきた。
それは今も変わらない。
そのプレーは今でも人を湧かせ、注目を集められるものだ。
大きな怪我の克服し、第一線でプレーをしていること、そしてその存在感は
サッカーをしてる以上後を絶たない怪我をする選手たちの大きな希望と目標となっている。
怪我を挫折にしなかった。それが山瀬功治だ。
そこには大切な家族の支えと力、そして山瀬を待っていた選手やサポーターがそこにはいてくれたから。
そして、大きな怪我をしても必要だという人がいてくれたから。
山瀬功治ほど、自分を強く持っている選手は少ない。
サッカー選手として意識が高く、日ごろの生活からアスリートとしての厳しさを忘れない。
「プロ」なのだ。
京都サンガを、そして山瀬功治を
J1で観たいと願っている想いは全国的に多い。
山瀬功治の名を知らない人もいるかもしれない。
でも、この名前を是非覚えてほしい。
きっとまた日本のサッカーを揺るがすようなプレーを魅せてくれるはずだ。
再出発を誓った 14の背中を魅せて。