【京都サンガ】 山瀬功治という日本サッカーの歴史 【前編】
2014/07/08 10:56配信
カテゴリ:コラム
山瀬功治。
この名前を知らないというサッカーファンも増えてきた。
山瀬を知る人間からするとそれは信じられないようなことだが、それでもそういった時代になったのだなと寂しいながらも痛感してしまう。
しかし、この名前を知らない人がもしいるのであれば、一度は山瀬のプレーを見て欲しい。
彼は五輪にもW杯にも出たことはないが、それでも日本サッカーを必死に引っ張ってきている選手の一人だ。
山瀬功治。33歳。
まだまだ彼のチャレンジは終わってはいない。
●幼き頃から現れた才能とセンス
山瀬が全国的に名前が知れ渡ったのはなんと小学生の頃。
小学生時に参加した少年サッカーのひとつの登竜門である冬のフットサル大会でのことだった。
この大会の第1回大会には小野伸二が出場しベスト5に入っている他、第2回大会では我那覇和樹が、そして第3回大会で山瀬功治はベスト5に選出されている。
フットサルは今はスポーツとして独立しているものとして日本全国で拡がっているが、当時はサッカーの冬のトレーニング方法として取り入れられてきた。
特に北海道は雪が降るため、グラウンドでは練習することができなくなるため冬は徹底的にフットサルで足元の技術を付けた。
サッカーの地域としては北海道は全国的に見ても強いとは言い難いがフットサルのレベルはとても高く、この大会でも何度も優勝や準優勝を北海道のチームが飾ることが多かった。
そんな中で山瀬功治は小学生らしからぬトリッキーさを魅せる。
とんでもない小学生がいる―。
それは北海道のみならず、まだインターネットがなかった時代ながら全国のサッカー関係者の耳に届いた。
そして山瀬功治は当時では考えられない選択に出た。
それはブラジル留学という武者修行だった。
中学生になった山瀬は、中学生とは思えぬほどにまだ身体は小さく小学生としてでも小さいのではないかというほどの幼さだった。
しかし、精神は誰よりも発達し未来をしっかりと見据えていた。
たった13歳でブラジルに行くことを決意し、中学には通わずにブラジルに単身留学した。
当時の事を知る北海道屈指の選手たちの誰に聞いても「山瀬は別格だった」という言葉を口にする。
小学生の頃から飛び抜けた才能を持っており、北海道では飛び抜けた存在だった。
それでも山瀬はそれに満足せずもっと上をめざし単身でブラジルへ渡った。
その選択を身体の小さい13歳の少年が決断したと考えると、とんでもない決断だと言える。
●ブラジルでの経験を持った若きフットボーラーの誕生
山瀬は帰国後、札幌のサッカー強豪校である北海高校に入学。
当時コンサドーレ札幌ユースは設立されたばかりであり、高校サッカーよりもユースという並びではなかったため、山瀬は高校に進学した。
しかし北海高校は当時高校選手権に一度も出場経験がなかったのだが、それでも山瀬は北海高校を選択。
そして北海高校を見事高校サッカー選手権全国大会へと導くという快挙を果たした。
高校3年時には当時岡田武史監督率いるコンサドーレ札幌に強化指定選手として登録され、そのままコンサドーレ札幌入り。
その直後にははじめての世代別代表に選出され、そしてプロ初出場でプロ初ゴールを決めるとすぐにチームの中心となり、次の年にはJリーグ新人王に選ばれた。
プロになった山瀬は急激に階段を駆け上がった。
アテネ五輪を目指す候補たちが集まる世代別代表でもすぐにチームの中心的存在となり将来の日本代表候補として全国から注目を集めていた。
プロ入り2年目でコンサドーレ札幌 日本人初の背番号10を背負う選手となり、日本人離れしたゴールへの嗅覚と2列目からの飛び出しで世代別代表でもコンサドーレ札幌でも核となり、どんどん自身も調子をあげ、身体がキレキレの状態で邁進していた。
そんな時だった。
まさかの大けがが彼を襲ったのは。
●何度も経験した現役を揺るがす大きな怪我
コンサドーレ札幌でのプレー中。
センターサークル付近でボールを持っていない状態で山瀬は突然倒れ込んだ。
すぐに自分で×を出し、悶絶する姿は今でも鮮明に覚えている。
アテネ五輪まであと2年。コンサドーレ札幌にとっては残留までの大切な時期だった。
これから。
山瀬にとっては本当にその言葉が当てはまる時期だった。
右前十字靭帯断裂。
全治6か月、復帰までは10か月から1年ほどかかる重傷を負ってしまった。
選手が一番調子が良い時に大きな怪我をしやすいという傾向にある。
身体がキレているものの調子が良いと頭でできると思った動きの一瞬が身体にとても大きな負担になってしまうことがあり大きな怪我を引き起こしてしまうことがあるのだ。
まさにそんなタイミングでの大けがだった。
山瀬は手術の後、札幌でゆっくりとリハビリを行った。
トレーナーが家に帰るまでつきっきりになり大事に大事にリハビリを行っているように見えた。
そんな大けがをした状態で。
山瀬の次のステップが決まった。
それは浦和レッズという巨大クラブへの移籍だった。
しかしも背番号は「8」。浦和にとって背番号「8」は小野伸二が付けていた背番号であり、小野伸二がフェイエノールトに移籍し空きになっていた番号。
その特別な番号を用意して大けがを負っている山瀬を獲得したのは異例中の異例だった。
それだけ、大きな怪我を負いながらも期待されているということは山瀬がどれだけものすごい存在であるかを示していた。
浦和に移籍した山瀬は当然リハビリからのスタートとなった。
そしてついに復活を遂げる。
復活した山瀬は浦和で流動的にポジションをこなした。与えられたポジションは3トップの一角が多く、攻撃的な選手としてナビスコ杯の優勝に貢献。
山瀬不在だった間に、アテネ候補の中では10番が松井大輔に奪われることとなったものの、松井か山瀬かという2大トップ下を配置できるようになったアテネ候補となる世代別代表は、山瀬の復帰で最高な状態で予選を迎えることができていた。
最後の最後までアテネ五輪代表の選出は困難を極めていた。その一人が山瀬だったことだろう。
予選に出場した山瀬は最終的に五輪代表から外れた。
怪我をしていなかったら―。
そういわれるのが嫌だった。そんなことを言い訳にしたくはなかった。
だからこそ次のステップ進むことだけを見据えて、山瀬は再出発した。
その後の山瀬はその悔しさを表現するかのようにゴールラッシュを浦和で魅せた。
五輪代表になぜ選ばなかったのか そう世間が思うくらいに山瀬は躍動した。
悔しさを形にしていた山瀬に二回目の悪夢が訪れようとしていた。
一度目の大きな怪我。十字靭帯は選手生命を左右するほどの大きな怪我の中、山瀬は完全復活してみせた。
しかし、襲ったのは
2004年9月
アテネでの仲間たちの活躍を見た直後。
左十字靭帯断裂。
今度は左の十字靭帯を断裂し、山瀬はまた怪我を闘う試練を背負ってしまった。
輝きだした原石がまたダイヤモンドになる前に、輝きを失ってしまった―。
この時、山瀬功治23歳。
23歳で札幌の10、浦和の8を背負い、五輪を目指して第一線で戦い
そして左右の十字靭帯を断裂した。
重なる経験と苦悩。
山瀬功治のサッカー人生はとても険しいものだった。
(前編終了 後編へ続く)
自分の中で一番好きな選手です。
名無しさん | 0 0 |2015/03/08|18:23 返信
北海高校時代、彼は選手権に出られませんでした。
2年連続で当時の室蘭大谷(現、大谷室蘭)に地区予選決勝で負けています。
ですので全国選手権に導いたという記述は誤りです。
なぜわかるのかと言われたなら僕も彼の後輩としてピッチに一緒に立っていましたから。
名無しさん | 0 0 |2014/10/25|21:05 返信