【鹿児島ユナイテッドFC】 サッカー王国・鹿児島 夢の実現。悲願のJリーグ参入へ ゴールではなくスタートの2016シーズンへ 【J3】
2016/01/17 22:02配信
カテゴリ:コラム
ついに鹿児島に念願のJリーグクラブが誕生する。
日本代表で戦う選手となった遠藤保仁や大迫勇也をはじめ
挙げればキリがないほどに多くのJリーガーを生み、育ててきた鹿児島県。
高校サッカー選手権では出場する度常に強豪として挙げられる鹿児島実業や鹿児島城西等、強豪サッカー部が揃い、鹿児島県の代表というだけで要注目高校となるほどである。
多くのクラブが九州に存在しているが、九州の中でもサッカーの盛んな地域として知られる鹿児島ながら、これまでJリーグのクラブは存在してこなかった。
Jリーグを目指すクラブを創ると明言してから20年が経過した。
ついに鹿児島に念願のJリーグのクラブが誕生する。
鹿児島ユナイテッドFC。
長年目指してきた場所へとついに手の届くところまで歩み、昨シーズン条件内であるJFL4位以内を確定。
Jリーグに承認され、来季からJ3に所属することが決まった。
●大きな一歩 夢の実現
鹿児島にJリーグを―。
そう立ち上がったのは、ヴォルカ鹿児島だった。
将来的にJリーグを目指す―。
そう言葉にしたのは1995年のこと。Jリーグが開幕し日本中がJリーグフィーバーで沸く中でのことだった。
Jリーグでは当時城彰二が若き選手ながら大活躍していたが、彼も鹿児島実業出身の選手であり高校選手権からサッカー界で話題の中心となった一人だった。
前園真聖等、多くの鹿児島に縁のある選手たちがJリーグでプレーしていた。
1995年、ヴォルカ鹿児島には西眞一という選手がいた。
西眞一という選手の名を聞いてもピンとこないかもしれないが、実はこの選手はサッカーにおける日本記録を持っている選手である。
引退する2007年までリーグで決めた得点は通算266ゴール。プロではないところだからこそ可能にした大量得点という印象を持つかもしれないが、だからこそズバ抜けた記録を出したことがそのレベルの中で飛び抜けていた存在だったということを記している。
背番号9を背負い、鹿児島のサッカーをけん引しプロクラブ誕生への実現を目指し続けた彼は、鹿児島サッカーの伝説といって良いであろう。
1995年からJリーグを目指し戦うと明言してきたヴォルカ鹿児島だが、資金難などで法人化することも難しかった時期もありなかなか実現することはできず、
それに加え、Jリーグ発展途上時期だったこともあり九州にはJリーグを目指すライバルチームが乱立した戦国時代へと突入。九州リーグの舞台ですら勝つことが難しい状況にあった。
現在のギラヴァンツ北九州、ロアッソ熊本、大分トリニータ、Vファーレン長崎、JFL所属のヴェルスパ大分やホンダロックSCなど
九州リーグでヴォルカ鹿児島の前に立ちはだかる壁となった。
Jリーグを目指すためにと毎年のように九州リーグにはJリーグを経験した選手を補強した強力な強化チームが参戦した。
資金力という部分で出遅れてしまったヴォルカ鹿児島は、それでも常に存在感あるチームではあったものの
地域決勝の舞台にはリーグから優勝した1チームしか出場することができないため、乱立していた九州リーグで戦うことは、世界一厳しい戦いと言われる地域決勝で戦うよりも厳しいものがあったかもしれない。
多くチームがJリーグへの階段を駆け上っていく中で、鹿児島は遅れをとっていたことは否めない。
ほとんどのJリーグを目指すというチームたちが上のリーグへと昇格を決めてから、ヴォルカ鹿児島に大きな転機が訪れた。
長く戦国時代だった九州リーグで次に上を目指すチームがあるとするならばヴォルカ。という時代へと突入するかと思われたが、
そこで思わぬ新たなライバルが現れた。
それがFC KAGOSHIMAだった。
ヴォルカ鹿児島という一本が鹿児島にJリーグを生む道と考えられてきたが、
結局長年において実現することが難しい状況のまま時間が過ぎてしまっていたことは確かだった。
そこで違った形で新たに鹿児島から本格的にJリーグを目指すという形でFC KAGOSHIMAが誕生し、堂々と手を挙げた。
鹿児島県内に現れるとは思っていなかったライバル出現となり、文字通り熾烈な戦いが起こった。
FC KAGOSHIMAはそれまでになかったプロクラブを意識したマネジメント力を持ってクラブを急速に成長させた。
Jリーグを目指すと宣言してから長年に渡り実現できなかったことで鹿児島県民の関心を引くことができなくなっていたプロサッカークラブの実現を呼び起こすかのように
メディアや自分たちの足を駆使し、PR活動からスポンサー獲得巡りまでを行い、改めて本格的にJリーグという場所を目指そうと呼びかけ実現を誓った。
PRだけでなく本格的な強化にも乗り出した。
JリーグやJFLでプレー経験のある選手を鹿児島県というルーツを持った選手たちを中心に獲得し、強化を図った。
そのひとつの大きな事件となったのが、ヴォルカ鹿児島伝説のエースだった西眞一の後継者として背番号9を背負った当時のヴォルカ鹿児島のエース辻勇人がFC KAGOSHIMAへと移籍したことだった。
ライバルチームへの移籍とあり、波紋を呼んだが鹿児島のサッカーを活性化させたひとつの大きな出来事となった。
選手たちが積極的にチームの地域密着へのマネジメントに参加することで、急速にFC KAGOSHIMAの鹿児島密着は加速し、多くの応援者や支援者が集うと同時に、リーグでの結果も出した。
思いもよらなかった鹿児島県内のライバルの出現により、それまでどこか変化を付けずにいられなかったヴォルカ鹿児島にも再び熱き火が灯り積極的な活動を展開、選手の補強なども開始。
負けられないお互いの意地が高いモチベーションへと繋がり、2012年には九州リーグで最後までヴォルカ鹿児島との首位争いを繰り広げFC KAGOSHIMAが優勝を飾った。九州リーグにおいて鹿児島県勢が優勝するのは26年ぶりの快挙であった。
その年の地域決勝で勝ち上がることができず、2013年にはまた同じく2チームで優勝の座を争う形となったが、8月には2チームの統合が発表された。
ライバルチームの統合には乗り越えなくてはならない壁やお互いに譲れないことも多く難航していたが、2014年から統合という形で新たに鹿児島ユナイテッドFCというクラブとなることが決まった。
その後、ヴォルカ鹿児島が九州リーグで優勝。FC KAGOSHIMAも補填出場という形で地域決勝への出場権を獲得し共に地域決勝へ進むと、決勝ラウンドまで勝ち上がり
FC KAGOSHIMAはJFL昇格圏内である3位、ヴォルカ鹿児島は4位という結果となり、JFL参戦が決まった。
●難関を乗り越えてきたからこその一体感と悲願達成
2014年。
鹿児島ユナイテッドFCとして迎えたJFL。
Jリーグを目指すという鹿児島の夢が始まってから20年近くが経過し、九州リーグからひとつステージを上げてJFLへと参戦した。
統合するということは2つのチームが1つになるということ、そしてひとつ上のステージで戦うこととなりさらにその上のステージへと進むにあたり
強化やチームの方向性、チームの抱えられる選手の保有数などによってチームを去らなくてはならない選手たちが出てしまう、厳しい現実にもぶつかった。
これまでヴォルカ鹿児島、FC KAGOSHIMAで試合だけでなくチームを大きくするためにスポンサー挨拶やビラ配り、メディアへの出演や子供たちへのサッカー教室など選手を越えた活動をし、鹿児島にJリーグをとの想いを持って
時間そして人生を懸けて歩んできた選手たちが次の道へと進まなくてはならないということも、この先を歩むには必要なこととつらい別れも生まれた。
そういった犠牲のある移籍や引退なども経て、鹿児島は大きな大きな一歩を踏み出した。
JFL2年目となった2015シーズン。
ついにJ3昇格条件内である4位以内を確定させ、J3ライセンスを取得し、念願の昇格が決まった。
「Jリーグクラブ」が鹿児島に誕生することとなる。
1995年の鹿児島にJリーグをという宣言から、実に20年が経過した悲願だ。
多くのJリーグクラブが、毎年シーズンオフになると鹿児島キャンプに訪れる。
その多くのクラブとも何度もトレーニングマッチを組み、対戦してきた。
鹿児島県代表として天皇杯の代表となりJリーグクラブとも戦ってきた。
Jリーグのサポーターからその健闘を讃えられ、いつかJリーグに上がってきてと声をかけられ、応援されたことを忘れてはいない。
鹿児島にJリーグクラブがない時代ではなくなった。
鹿児島でサッカー選手を夢見てサッカーをする少年たちが目指すことのできる、自分の街のプロクラブが誕生する。
子供たちへの普及活動として積極的に鹿児島県内の広い範囲でスクールを展開し、
今までヴォルカ鹿児島やFC KAGOSHIMAに関わってきた元選手たちや指導者たちが、車で何時間もかけてサッカーを教えに周っている。
鹿児島には鹿児島城西や鹿児島実業、神村学園など強豪高校が存在する。
大学で強豪に数えられる鹿屋体育大学が存在する。
そしてJリーグクラブ 鹿児島ユナイテッドFCが存在する。
もちろんJ3がゴールではなく、20年かかってようやく手にした「スタート」だ。
目指すはJ2。そしてJ1への道。
まだまだ歴史を止めるわけにはいかない。
多くの人たちが抱く夢は、希望と期待と共に 先へと続いている―。