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【なでしこJAPAN】 澤穂希、引退―。振り返る澤穂希を知ったあの日。 後編 【INAC神戸レオレッサ】

2015/12/21 12:15配信

Tomoko Iimori

カテゴリ:日記


背番号10の背中には、特別な意味がある。

背負う選手によってそれぞれの「10」の色があるが、
空気のように無くてはならないもののように日ごろから男子サッカーを中心にサッカーに触れる日々を過ごす中で
印象に残る背番号10は多く存在してきたものの
サッカーにおいてその背番号が重い意味を持っていることを感じさせてくれたのは

澤穂希の姿だったと感じる。

女子サッカーの今までの歴史とその先にある未来を共に背負ったその背中には、男子とはまた違った色の「10」であった。

・前編

http://chantsoccer.com/posts/884


●なでしこJAPAN誕生。世界を感じさせる強き日本の女性たちの代表へ

日本スポーツ界において、ある風習のようなブームのような、なんともいえない流れが起きていた。
後に侍JAPANと付いた野球の日本代表や男子バレーの竜神JAPANに女子バレーの火の鳥JAPANなど多くの名称が溢れた。
トルシエ監督が日本代表を率いた頃から監督の名にJAPANを付けて呼ぶ名称が、サッカ―日本代表を指す言葉となり、その流れは今でも続いている。

サッカーからブームとなった○○JAPANという名称を付ける流れに
当時世界上位チームであった北朝鮮を破りアテネ五輪への切符を掴み話題となったことで、女子サッカーの愛称も公募により決められた。

なでしこJAPAN

その名がついた時には、なんでも○○JAPANという愛称を付けることに疑問を抱き違和感を感じたものの
改めて考えると○○JAPANという名称の中で、結果的に一番のインパクトを残し、世間へ広く知れ渡り浸透した名となった。
なでしこJAPANという名は=でサッカ-女子日本代表へと繋がっている。

発表となった時、なでしこJAPANと書かれたその達筆で力強い文字は、チームの中心である澤穂希が書いたものだった。


世界の大舞台での戦いで、なでしこJAPANが世界上位を本格的に実現させたのは、2008年北京五輪でのことだった。
1次リーグ初戦、ニュージーランドに引き分けると、第2戦女子サッカーでは世界のトップレベルを走るアメリカに敗れたものの、3戦目で5得点を奪いノルウェーに勝利を収め2位通過で決勝トーナメントへと進出。
決勝トーナメントでは、地元開催であった中国代表に勝利し、ベスト4進出を果たした。

あとひとつ勝利するとメダル確定というところで、再び強敵アメリカと対戦し敗れると、3位決定戦では同じく世界トップと言われるドイツに敗戦。
それでも世界4位という位置を獲得したサッカー女子日本代表は、はじめて世界上位という結果を残した大会となった。

男子の世界への壁はまだまだ遠く厚いことを感じさせられる、大きな大会。
男子とは規模や歴史も違うものの、それでも日本を背負い世界と戦う女性たちの姿は凛とし、強く、美しかった。

なでしこJAPANは世界との戦いで結果を掴み魅力を伝えることで、普段サッカーを観ない層からも強い支持を得た。
サッカーのことはわからなくとも、なでしこJAPANの戦う姿は元気が出るので観るという、サッカーではなく「なでしこJAPAN」が観たいという層を生んだ。

チームの中心は、いつでも澤穂希だった。

長きに渡り、背番号10を背負い、いつからかキャプテンマークを巻くようになったその姿は
世界のエースたちと並べて比較される選手になっていた。
その大きな存在感が、日本の強力な武器でもあった。

澤の戦う姿に魅力を感じ、なでしこJAPANを応援する人たちがどんどん増えて行った。

サッカー女子日本代表には 澤穂希がいる―。

このひとつの大きな歴史が在るこの時代に、サッカーを観ること・知ることができたことは
幸せに値する。

その存在が大きくなるにつれて、そう感じるようになっていった。


●初の世界制覇で日本に勇気と感動を与え、伝説となる存在へ

(出典:JFA)

2011年。
日本は大きな災害に遭った。

記憶にまだまだ新しい、東日本大震災。
3月11日に起きた大きな地震、そして多くの命を奪った津波―。

テレビで見た光景でもショックは大きく、日本で起きたこととは思えないほどに、その被害を前に目を覆いたくなるような現実が拡がっていた。

サッカー界にできることはなにか―。
すぐに動き出したサッカー界は、ひとつになることを誓い、積極的な支援を行った。
募金活動やチャリティーマッチなど、それぞれにできることに力を入れ、被災地を実際に訪れたり人々と交流したりとその活動は今でも続いている。

起きてしまった厳しい現実を前に、
希望を強く求めていた、忘れられないその年。

なでしこJAPANはドイツの地でワールドカップを戦った。

男子のワールドカップほどの盛り上がりはなかった。
出発の時に集まった報道陣はたったの10人。見送るサポーターは一人もいなかった。
なでしこJAPANがワールドカップに挑むことに関し、それまでの大会以上には取り上げられていたものの それでも扱い小さな小さなものだった。
しかし、自らの力で状況を一変させる。

グループリーグ2位で通過し、準々決勝にコマを進めると、相手は開催地であり世界のトップを走る強豪中の強豪、ドイツ。
ドイツ女子代表は世界№1ともいわれ、ワールドカップ本戦では15試合負け無しが続いており、サッカー女子日本代表は過去にドイツ代表に勝利したことがなかった。

一度も勝利したことのない 大きな壁。
しかし、なでしこたちは自分たちの持っている力のすべてを力いっぱいにぶつけた。
90分でも決着がつかず、スコアレスのまま延長戦に突入すると、延長後半丸山桂里奈がゴールし、1-0で歴史的な勝利をおさめた。

世界のトップとも言われるドイツに初勝利、そして準決勝への進出は大きく報道され、世界で戦う女性たち「なでしこJAPAN」に大きな注目が集まった。

それが元となり、準決勝は地上波で放送されることとなり、スウェーデンにも勝利を収め決勝進出を決めた。
サッカー女子日本代表の国際試合において、はじめてのメダルが確定となった。

決勝の相手は同じく世界トップクラスであるアメリカ。
今までに何度も国際大会でその高き壁を感じてきたアメリカとの戦い。
アメリカでプレーした経験のある澤は、アメリカの選手たちにも知られた存在であり、日本の中心選手であるため当然きついマークに遭った。
それでも背番号10は、大きな存在感を示した。
アメリカに先制されるも、日本は宮間のゴールで追いつき1-1のまま延長戦へ。

延長前半にアメリカのエースであるワンバックが決めると、日本のエース澤がワンバックに当たる形でゴールネットを揺らした。
2-2。どちらも譲らない戦いであり、日本はアメリカに勝ち越しをさせぬと最後の最後まで走った。

PK戦までもつれこんだ長き戦いで、澤はPKを蹴ることを拒否した。
それだけ重要な1本になるという重圧を感じていたからであろう。澤はこれまでもずっと誰もが想像できないほどの重圧を背負ってきたはずだ。
PK戦で日本は4本目の熊谷や決め、日本の勝利という形で初めての世界制覇を果たした。

澤が日本の国旗を掲げ、纏った。
その背にした日の丸は、大きな大きなものだった。

東日本大震災が起こり復興に向け力が必要なその時期に。
大きな勇気を日本中に与えた試合となった。
試合後、必ずなでしこたちは世界へ向けて、復興支援ありがとうとメッセージを送った。

強く諦めずに掴んだ最高な結果を得たその姿は、本当に誇らしかった。


14歳で日本代表候補へと選出された、白黒のページで紹介されていたショートカットの新鋭と呼ばれた少女は
いつの間にか偉大な姿となり、世界のMVPに選ばれ、世界制覇を果たし、高々と誇らしげにそして歓びを爆発させ仲間たちと共にカップを掲げ、輝いていた。


なでしこJAPANという名称は世の中に浸透し、日本の強き女性たちの象徴となった。
その後、さらには男女通じてアジア人選手初のバロンドールに選ばれるという、名誉。
FIFA年間最優秀選手に、澤穂希が選ばれたのだ。


澤穂希は、伝説となった―。

私には、現在小学生の娘がいる。
いつだったであろうか。小学校の道徳の教科書を持ってきて、私に見せた。

ねぇねぇママ。
澤さんが載ってるよ。

道徳の教科書には、澤穂希の 夢をかなえるためにはという内容の文章が掲載されていた。

物心つく前からサッカーに深く触れ合う環境にあった我が娘は
当然のようにサッカーに囲まれた生活をしてきているが、女子代表の試合は観戦させたことはない。
テレビで試合が流れていても、それを一緒に観ていたことがあったのかもわからないほどに、女子サッカーの話はしたこともないし
澤という偉大な選手がいることも改まって話したことはなかった。

それでも、自然に知っていた。
澤穂希という選手が、女子サッカーというカテゴリーで世界的に有名な選手であるということを。
日ごろのメディアによる報道を聞いてたのか目にしたのかはわからないが、自然と澤穂希という読みとして難しいその名前も、当たり前のように知っていたのだ。

自然に子供の知識に入るほどに、影響の大きい存在となり、日本の女性の象徴となったのだなと改めて感じた出来事だった。


小学生時代。
私は女の子ながらサッカーがやりたいとワガママを言い、最初は入れることに難色を示したサッカー少年団に
女の子だからと入れないのはおかしいと監督に掛け合ってくれた先生がいた。
一人として女子サッカー選手の名前もチームも知らなかった私に、土の上にピラミッドを書いて女子サッカーの組織を教えてくれたその先生が
なんの因果関係か、偶然ながら娘の小学校の教頭先生として今年、赴任した。

20年以上が経過しても
今でもサッカーに染まった生活をしていることを報告すると、先生は目を細めて喜んでくれた。


12月16日。
澤穂希が引退を発表した。

ついにこの日が来てしまったか―。

引退という節目を受けて、改めて振り返ってみることで気づかされた。
澤穂希という選手を知ってから、23年という月日が経過していた。

その23年間、一度も名前を聞かなくなった時期はなく、常に第一線で戦い続け、世界にその名を響かせた澤穂希。

勝手に知って勝手に憧れたその存在は、今では誰もが知る大きな存在となった。

いつか来るであろうと その日も近いのかもしれないと感じていながらも
やはりその日が来てしまうのは寂しく、しかしどこか誇らしい。

澤穂希という存在があったからこそ、女子サッカーはここまでの発展を遂げた。
その歴史をリアルタイムで感じながら観ることができたのは、本当に幸せなことだった。

次の日。
娘の小学校に用事があり訪れると、さわ ほまれという名を教えてくれた先生が私の顔を見て思い出したかのように話をした。

澤が引退するんだね。
澤を知ってから…随分と時間が経ったもんだなぁ。

当時、私は小学生だった。
先生はまだ若い熱血教師だった。

23年が経過し、私は結婚して娘が生まれ、小学校に通う娘がいる。
あの時、澤穂希という名を教えてもらった私は、今サッカーを伝えるために、サッカーライターをしている。

先生は白髪頭になり、教頭先生に立場を変え、教え子であった私の娘の学校の先生だ。

…随分と時間が経過したものだ。

それでも澤穂希は変わらず。いや、時間をかけて高いところを目指し、サッカーをしていたのだ。
本当に長い時間をかけて、サッカーを全うしていたのだ。

澤さん、引退するんだって!

学校から帰ってきた娘が、トップニュースのように息を荒くして言った。

寂しいね。

うん、寂しいね。

親子でそんな想いを共有できるのも、それだけ長い活躍があったことを意味する―。


澤穂希、引退。
ひとつの大きな時代が終わることとなるが、その時代が繋げていく次世代を
時間をかけてサッカーを見てきたことでライターとなった私が、伝えることができるよう精一杯努力しよう。

そう、改めて想いを握りしめた日となった。

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東京Vの練習場で、小学生だった息子に、練習で走っていた澤さんの方から声をかけてくれたのが懐かしい…
その息子も二十歳。
澤さん、ありがとう。お疲れさまでした。

ナナ好きママ  Good!!0 イエローカード0 2015/12/22|00:41 返信

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