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【なでしこJAPAN】 澤穂希、引退―。振り返る澤穂希を知ったあの日。 前編 【INAC神戸レオレッサ】

2015/12/18 12:03配信

Tomoko Iimori

カテゴリ:日記


初めてその存在を知ったのは、中学生になる直前のことだったと記憶している。
Jリーグが開幕することが決まり、「サッカー」という新たなプロスポーツの出現を前に世間が新しいブームを取り入れるかのように、どこかソワソワしている頃だった。

Jリーグ開幕前年に行われた、初めてのナビスコカップ。
プロサッカーの主役は、開幕前から象徴となっていた三浦知良やラモス瑠偉など多くの日本代表を要するヴェルディ川崎だった。

当時はまだ読売クラブという名前が通名であり、読売ヴェルディ川崎といった長い名前に変化を遂げた矢先。
まだ周囲では誰も興味を持っていなかったサッカーというスポーツにいち早く飛びついた小学生だった私は、
必死にサッカーを知ろうと当時はまだ少なかったサッカー月刊誌の発売日をまだかまだかと待ち、過ごしたものだ。

当然当時は、インターネットも家庭に存在するような時代ではなく
今のようにスマートフォンによって気軽に情報を手の中で掴める時代でもなかった。

情報はテレビ、新聞、数少ない専門誌。そして図書館。
そのすべてを網羅して必死に情報を手に入れていた時代。
今思えば、そういった必死に探った「知りたい」が元となり、今このように文章を書く立場になっているのかもしれない。

そんな日本のプロサッカーが始まろうという中で目にした、雑誌の白黒のページに小さく掲載されていた記事に目を止めたことを今でも鮮明に覚えている。

澤 穂希。

そこにはまだ14歳で女子日本代表に選出されたと伝える記事があった。
14歳―。
自分とほとんど変わらないその年齢で、女子日本代表に選出されている選手がそこに掲載されていた。
サッカー女子日本代表という未知な世界だが、「日本代表」という場に14歳の女の子が選出されていることに驚いた。

14歳という年齢で日本代表に選出されるようなことがあると、現代であったなら天才だと称され大きな話題となることであろう。
しかし、当時はその偉業を持ってしても伝える記事は数行、白黒のページの隅に小さな写真が掲載されているだけだった。

ショートカットの14歳の女子プレーヤー。
澤 穂希。
この選手の名前はなんて読むのだろう―。
私がはじめて澤穂希という選手を知った、思い出だ。
それが、はじめて女子サッカー選手の名前を覚えた日となった。

●初めて知った女子選手、そして憧れとなった日


当時、サッカーが好きだという一心で、私は地元のサッカー少年団へと入団した。
当時は女子がサッカーをするというのはとてもめずらしいことで、小学校で練習する地元サッカー少年団もその名の通り「少年」がサッカーをする場であり、
女の子が入団したいと手を挙げるのは初めてのことだった。
現在では、その少年団から鹿島の西大伍、札幌の永坂勇人、そしてINACの三宅史織とプロ選手を輩出している地元では有名なプロ輩出少年団であるが
当時はまだ歴史は浅く、女子の受け入れ経験もない時代だった。

今思えば、サッカーが好きだという小学生の単純ながら一本の芯が通った「好き」という純粋なベースから
とにかくやってみようという道だけを選択したのだと感じる。
サッカーをプレーヤーとして体験することで、サッカーを「知る」ことができると踏んだのだ。

球技が得意であったこともあり、授業のサッカーではいつでも派手な活躍をすることができた。
だからある程度やれるだろう。そんな甘い考えもあった。

親は女の子がサッカーをやるなんてと反対したが、それでもサッカーに対する熱意だけは幼き頃から満ち溢れる探求心もあり短期間で一丁前に出来上がっていた私は
必死に頼み込み説得し、女の子がサッカーをやるという「異例」を切り開いた。

体育の授業とは違い、男の子たちの中に入ってするサッカーはとにかく痛かった。ボールを身体に当てるということはこんなにも痛いのかというほどに毎日ボールの跡でアザを作った。
女の子はお腹を大事にしなさいとは良くいうが、問答無用にお腹にも力いっぱいに蹴ったボールが当たる。
顔面に当たると目の前が真っ白になる感覚になるほどにいろんなものが吹っ飛んだ。
女の子がするスポーツではないと言われたことが何度も頭をよぎった。簡単に踏み込んではいけない世界だったのかもしれないと子供ながらに思ったものだ。

目の前に目標とする選手といえば、プロ化が目の前で盛り上がる男子サッカーの選手の名前が挙がる。
少年たちがサッカーをする環境であることもあり、目標は男性選手であることが当然だった。自分がサッカーをしているのもも女子の選手がいるということもちゃんと認識はしていなかった。
その中で、当時少年団の顧問の先生に女子サッカークラブが存在することを教えられた。

組織図のようにグラウンドの土の上に書いて教えられた中で、ピラミッドの頂点に書かれたチームが
読売ベレーザというチームだった。
女子の頂点はココだと教えてくれたその名を聞いて、読売…クラブの女子チーム?と子供ながらに繋げたものだ。
プロ化が進む男子サッカーで話題の中心は読売だった。
女子も同じく読売が強いのか…そう知った、サッカーの図式。

その生活の中で、雑誌で知った澤穂希の名。
年の近い日本代表候補にも選出されるそのプレーヤーの所属は、読売ベレーザと書かれていた。


読売に在籍する14歳は、頂点でサッカーをしているプレーヤーなのだと、子供ながらに衝撃を受けた。
自分のまだ満たないサッカーの知識の中で初めて知った女子プレーヤーが、14歳の新鋭と書かれた澤穂希だった。
それと同時に自分の目指すべき選手はこの選手なのだと自然な形で思うようになった。

その雑誌を持って、顧問の先生に聞きに行った。
この選手の名前はなんて読むの?そう聞いた私に先生は言った。

さわ ほまれ と読むんだよ。


当時はテレビで試合も放送していない。
情報は極端に少なく、インターネットもない。
どうしても知りたかったその名は さわ ほまれという名前だった。


その名前は私の中に刻まれた名となり、憧れの選手となった。


●活躍を耳にすることで、自分も頑張れると思っていた若き日。

当時、女子サッカーに関する情報は本当に少なかった。
試合をテレビで見ることもできない。
プロサッカーリーグであるJリーグが開幕したことで、増え得たサッカー雑誌やテレビ番組の中はすべてJリーグで埋められた。
Jリーグが開幕しサッカーというスポーツにより多くの注目が集まったことで女子サッカーも少し日の当たる存在となり取り上げられることもあったが、その多くは本当に触るだけの内容の薄いものだった。

もちろん、日本中を包み込むかのように盛り上がりを魅せたJリーグに夢中になった。
Jリーグが開幕してすぐに始まった日本代表のW杯予選を W杯という大会がどれほどまでに大きな大会かをまだ認識していなかったが
それでも当時は必死に理解し、その誇らしい戦いにすべての祈りを捧げ応援したものだ。
ドーハの悲劇の夜は眠れずその重さを自分なりに受け止め、悔し涙を流し眠れなかったものだ。

地上波でJリーグの試合が見られる環境であった当時、ニュースは大きく時間を割きJリーグを取り上げた。
サッカー番組も増え、週に何度もサッカー情報を目にすることができる。
その中で、女子サッカーの話題はあまり出てこないものの、サッカー誌の中で女子サッカーの記事を探しては、澤の名前を探した。
澤穂希は気づくと、読売ベレーザで10を背負う選手になっていた。
サッカーという世界において背番号10が大きな意味を持つことを知っていたが、読売ベレーザの10を背負うということがどれだけ大きなことかと誇らしくなった。

試合があればその詳細が知りたくて図書館へと走った。
新聞にはJリーグの詳細だけが載っていたが、スポーツ新聞や全国版の新聞などには女子のスタメンの表記などもあったからだ。
雑誌の白黒のページでも必死に探した。
自然と女子サッカーの選手たちの名前も覚えるようになっていったが、澤穂希という名前だけは特別だった。
自分と年が近いという勝手な親近感が、ナマで見たこともない彼女を応援する理由になっていた。

澤が活躍してくれると、自分も頑張れるような気がした。
サッカー少年団を卒団した後は、自分がサッカーをはじめたことは「知る」という好奇心からの延長上だと自分でなんとなく気づき、
プレーヤーとして続けるのではなく、観ること知ることにすべてを懸け、サッカーのある生活を送った。

男子サッカーを観ることが当たり前となり、空気のようになくてはならない生活になっていく中で
女子サッカーの扱いも少しづつながら耳にするようになり、五輪など大きな大会になると女子サッカーに注目が集まることもあった。

澤穂希という名を知り、その活躍を追うことで勇気づけられていた生活からいつしか、その名を追うことなく自然に入ってくる情報に
澤を確認するようになったのはいつ頃だったであろうか。
思春期をサッカー中心に過ごしていたものの、日常にはたくさんのやりたいことが溢れていた若き日。
私はサッカーを中心にしながらもいろいろなことに夢中になった。
音楽、遊び、恋愛や、視野を広げる楽しみ…
サッカーから離れたことはなかったが、それぞれブームのように過ぎ行く好奇心に駆られるものには、とにかく手を出した。

そのどんな時も澤の名前は女子サッカー界で大きく大きくなっていた。
年の近い澤穂希は、同じ年代の女の子たちがいろんなことに夢中になっている間も、きっとサッカーに情熱を絶やさず追求していたのだろうと、今だからこそ振り返り思う。
私なんかには尊像もできないような世界で戦っていたのだろうと思うと、自分の過ごしてきた生活を考えると恥ずかしいほどだ。
サッカーは人生そのものだという言葉を耳にすることがあるが、回り道せず枝分かれした道が多く存在する若き日であっても、サッカーという一本道を追求してきたということは
並大抵のことではないであろう。

女子サッカーに光が当たることが少ない中で、先が見えない中でサッカーが好きだ、サッカーをやりたい、日本の女子サッカーを強くしたいという気持ちで突き進んでいたからこそ、
澤穂希の名を聞かなくなることがなかったのであろう。
14歳の澤を知ってから今日まで―。

●知ってから12年の歳月が経ち、はじめて自分の目で見た姿は、涙が出るほど大きかった。


2004年。
アテネ五輪代表を決める試合が、国立競技場で行われた。
相手は当時世界ランキング3位の北朝鮮。日本は世界ランクでも北朝鮮よりもずっと下であり、13年間も勝利したことがない相手だった。
北朝鮮に勝利しなければ五輪代表を掴むことはできない。なでしこJAPANという名称が付く前の時代であり、まだまだ女子サッカーは光が当たらない競技だった。

しかし。国立競技場には多くの人が集まった。
女子代表の試合に国立が大きく湧くような大歓声に包まれたのは、はじめてのことだったのではないであろうか。

日本のエース澤穂希は半月板損傷という大けがを抱えていたにも関わらず痛み止めの注射を打ち、それでは痛みが完全に引かず痛み止めの効果の強い座薬を投入してまでピッチに立っていた。
その背中は大きな大きな背中だった。
14歳の澤穂希の名を見つけてから名前だけを追いかけてきたが、はじめて観る澤穂希の姿に感動を覚え涙を堪えた。
日本という大きな大きな責任と重圧を背負いながら、普通ではピッチに立てないような状態でも存在感をしっかりと放ち全力でボールを蹴る。
澤がやってくれる―。
そんな期待が湧き出てくる。

怯むことなくタックルに向かう。半月板が損傷している右足を軸足に何度も強烈なキックを蹴る。
澤穂希のプレーの数々に手を握りしめ祈るような気持ちで応援した。

日本の得点が入ったときには全身全霊で喜んだ。
国立競技場で観るはじめての女子日本代表は、強かった―。


大きな壁である北朝鮮相手に、勝利をおさめ五輪切符を手にした感動の試合は全国放送され、多くの人々が女子日本代表を応援した。
サッカー女子日本代表には、男子のサッカー日本代表とはまた違った魅力があると強く感じた試合となった。


澤の背中を見て、こんな大きな存在感のある選手をそれまで知りながらも見てこなかったことを後悔した。

澤穂希に、「世界」を感じた。
憧れの澤穂希は、思った以上に大きくさらに憧れを抱く存在になった。


背番号10の背中に、日本を引っ張る力を感じた。

その時。
澤穂希は、26歳になっていた―。

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