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【ザスパクサツ群馬】 菅原宏GMに聞く―。「サッカーで地域を元気にする」群馬から発信するfootball 前編 【J2】

2016/11/09 21:35配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム

(Photo byザスパクサツ群馬提供)

GMとは―。
Jクラブの多くにはゼネラルマネージャーという重要な職が存在する。
実際にはどんな仕事をし、どんなビジョンを持って、どんな人物が務めているのか―。
そういった部分は深みを持ってたくさんの人々に知られるような機会があまりないのが実情かもしれない。

菅原 宏 氏。
ザスパクサツ群馬にてGMを務めている。

Jクラブと地域密着。
自らが創った図南クラブという歴史深いクラブと地域の関係性が生み出す、ザスパクサツ群馬そして群馬発信のfootballのこれから。

可能性は無限大という言葉が当てはまる
これまでの歴史との融合。

菅原GMにこれまで歩んだサッカー人生と、群馬県に生み出した育成。
そしてこれからを、聞いた。


●サッカー選手、指導者、伝達者…夢が絶たれながらもサッカーを探求することを諦めなかった「道」

「1800人以上が通う小学校に通っていた当時はガキ大将だった」と豪快に笑い語るその姿からは、
当時から続くのであろう菅原氏の人情味溢れる人柄と 人に頼られると力になってあげたいという親分肌が垣間見える。
信頼を重ねた間柄からお願いされたことは、無理難題だとしてもどうにかしてあげたい。
そんな人間性が溢れ伝わってくる。


現在、ザスパクサツ群馬のGMを務めている菅原宏氏は、初対面にも拘わらず両手を広げて待っていてくれたような そんな印象を抱いた。
菅原氏がザスパクサツ群馬のGMに就任したのは2014年のこと。
だが、菅原氏が群馬のサッカーに携わるようになってからの歴史は、ザスパクサツ群馬のチームの歴史よりも ずっと深く築かれてきたものだ。

まずは菅原氏のルーツを探った。


菅原氏も群馬県のサッカーを大きく動かした一人の「サッカー選手」だったが、意外にもサッカーをはじめた時期は遅かったという。
「サッカーがやりたくて前橋商業高校に進んだ。中学時代までは野球をやっていてチームで4番打者だった」

サッカーをやりたいと決めて選択した前橋商業高校への道。
現在では全国的にみても強豪名門校のひとつとして数えられる前橋商だが、当時ははじめて全国大会出場を果たした矢先。
群馬を勝ちあがり全国へと駒を進められるようになった時期に在った。

高校生からサッカーをはじめたという菅原氏だが、すぐにその頭角を現し前橋商の一員として全国大会行きを決めると、総体ではじめて全国勝利を手にし、ベスト16まで勝ち進んだ。
全国で群馬県勢が存在感を示すような活躍の初期を築いた時代を選手として刻んでいた。

サッカーをやるために前橋商へと進んだ菅原氏だが、その道は自分で求め決めた道だった。しかし、家族が求めていた道は違い、決して簡単な道ではなかった。
菅原氏の父は土木建設業の会社を経営していた。
いずれ長男である菅原氏に跡を継いでもらおうと工業高校への進学を望んでいたというが、自身がサッカーをやりたいという強い意思を持っていたため前橋商へと進んだ。

菅原氏の父は菅原氏が生まれた頃から心臓が弱く、当時の医学では菅原氏が生まれた時点で残り3年しか生きられないと告げられていたという。
しかし、当時の日々発展する日本の医療の進歩もプラスとなり、父は常に悪化してしまうかもしれない心臓という爆弾を抱えながらも、家族と共に日々を重ね暮らすことができていた。

しかし高校3年生の頃、父が突如として倒れ東京の病院に入院することとなる。
これから先を生きるには難しい手術を受けなくてはならないという岐路となった時、
父は「工業大学に行かないのであれば、手術は受けない」と息子である菅原氏に告げた。

当時の菅原氏は、体育学部のある大学へと進学を見据えていた。
体育教師となり、指導者として部活という場で次世代の選手たちを育てたいという夢を持ち、東京の体育大学へと進学を希望していたが、父から示された手術を受ける条件を受け、夢を絶つという道を選択した。
菅原氏は父の意思を受け止め足利工業大学へと進学し、家業の跡を継ぐための勉強を重ねることとなった。
この大きな人生の決断をしたのは、まだ18歳の頃だった。

「教師になりたいという夢が絶たれた時は大変なショックだった」
そう語る菅原氏だが、体育大学へと進学し教師になるという夢を絶つこととなりながらも、サッカーをやめるという決断はなく、前橋商のOBクラブを創りたいという想いから、図南(となん)クラブを18歳の時に創った。
まずは前橋商業高卒の選手たちを中心として社会人チームを創り、その後は名古屋グランパスやセレッソ大阪で活躍した米倉誠氏やザスパクサツ群馬現監督であり横浜フリューゲルスや清水エスパルス等6チームで活躍した服部浩紀氏などが小学生の県選抜だった頃に
毎週土曜日だけのサッカークリニックのような形で技術指導を引き受け、ジュニア年代の育成に関わるようになった。

「とにかく次の世代に伝えることが大切だと思っていた」
という菅原氏は、足利工業大学に通い工業の勉強をしながら、前橋商のコーチを、その練習が終わると夜は図南クラブの練習をとこなし
毎週土曜日にはジュニアの指導をして、日曜日には図南クラブの試合と詰め込んだスケジュールを全力でこなした。
パンパンとなっている予定でも、つらいと感じることはなかった。
伝えなければ。その気持ちが強かったこと。
そして自身がなによりも手ごたえを感じ汗をかきながらも楽しんでいたことで、サッカーに深く携わりながら自身の家業に必要なことを学び重ねていた。

大学卒業後は、父の会社と繋がりのあるお世話になっていた会社に就職し5年ほどの期間を持って修行し学ぶはずだったが、半年弱ほど経ったある日。
再び父が倒れたという知らせが入る。
それからは毎日のように仕事をしながら、父が入院していた東京の病院と前橋を往復する日々を過ごした。
その状況であっても、とにかくサッカーがしたかった、そして選手たちの指導をしたかったと菅原氏。
3歳までしか生きられないと言われた父は菅原氏が23歳になるまでを家族として共に過ごし、他界。
家業を継ぎ代表取締役という重要なポストに就きながらも、群馬県のサッカーに携わるその時間を減らしはしなかった。


●大きな衝撃を受けた「地域密着」というクラブとしての目指す「未来」と「育成」


図南クラブはJリーグ百年構想クラブである。
Jリーグが日本のトップリーグである以上、そこを目指すことはもちろんとしながらも
Jリーグ入りを目指し強化をするというクラブ作りではなく、地域密着を築く百年構想クラブであることに重点を置いている菅原氏。
「アマチュアチームであっても百年構想を持って、地域と密着することが大切だと思っている」と菅原氏は言う。

その想いには 大きなきっかけがあった。
群馬県サッカー協会50周年記念として開かれた講演に、当時Jリーグチェアマンを務めていた川淵三郎氏が立った。
その時、菅原氏は群馬サッカー協会技術委員長を務めていたが、川淵チェアマンの百年構想を土台とするJリーグの話を聞き大きな衝撃を受けたという。

サッカーと地域密着の関係。
地域全体でクラブを愛し、地域に住む人たちが当たり前に感じるような自然な存在感あるクラブ―。
「一番大好きなサッカーを通じて地域を元気にしたいと思っていた」と菅原氏はそれまでも想いをもってサッカーに携わってきていたが、川淵氏の話を聞いてそれを「地域密着」という現象とするという明確な答えを受けた。
地域に愛されるクラブ―。

ザスパ草津が温泉街である草津に生まれ、チームの歴史や土台を創るよりもスピードを持ってひとつひとつを上がっていき、
図南クラブを通り越す形で追い越し、周囲からはライバルだという声も多く聞こえたが、「重点を置いている場所もやり方も在り方も全く違った」と菅原氏は言う。

「下の世代の子供たちを育てていくためにどうしたら良いかというところに重点を置き、群馬から良いサッカー選手を生む・発するというところにこだわりがあった。
アマチュアチームだからお金をかけて選手を獲得し強化することはできないし、チーム強化だけに重点を置くのではなく、図南は育成に重点を置いていた」ため、ライバルとして横並びという意識はなかったと話す。
「いい人材を育てたい。どうやって群馬の子供たちを育て、全国に出ていける選手にするか。
そしてそういった選手たちが群馬に帰ってきてくれるようなシステムを構築しなければとならないという想いもあり考えていた」という。

群馬らしさというものを持ってる育成を目指し、図南クラブを中心に群馬県のサッカー全体の向上にたくさんの努力と時間を重ねてきた菅原氏。
「育成に重点を置いているのが群馬県サッカー協会であり、育成強化することによって一種でありシニアでありが強化されていくことに繋がると思っている」と話す。
それは図南クラブとしての代表としても、ザスパクサツ群馬のGMとしても想いは変わらない。

群馬県出身の細貝萌(ドイツ・シュトゥットガルト)や鈴木武蔵(アルビレックス新潟)は「若い頃は下手くそだったんだから」と笑う。
「彼らの同期にもっとスーパースターと呼ばれる選手たちがいた。
だが、群馬の育成という土台があったからこそ世界と戦う選手になるまで伸びたという結果があると思っている。
高橋秀人(FC東京)も県選抜にやっと入るような選手だったが日本を代表する選手となったことも、群馬の育成する立場にある指導者たちがどこで伸びるかわからない選手たちを「今」という目で見ずに、勝手に選手のピークを決めず諦めずたくさんの可能性を持って指導してきた結果だと感じている」
と話す。

「選手として立派にすることもそうだが、クラブとしても地域に根付くクラブとするためには必ず時間がかかるものだ」と菅原氏。
「例えば浦和レッズには三菱自動車からの歴史がある。ガンバ大阪には松下電器時代からの歴史がある。
そういった土台があり、Jリーグとなってからもクラブとして積み重ねてきた歴史がある。
チームは良い監督と良い選手を揃えたことで一時的に強くなるかもしれないが、良い監督と良い選手を揃えたからといって地域に根付く良いクラブが簡単に出来るわけではない。
一時的なもので次の年にはどうなるかわからないというようなチーム作りを目指しているのではなく、地域に浸透する存在となることが大切であり、結果はもちろん追求しそれが示しにもなることを念頭に置いた上で、
試合に負けたチームだとしても多くの人々に継続した関心を持って愛されるクラブでなくてはならない。
その土台となる歴史が、まだザスパには足りないのが現状だ」と、菅原氏は話す。

「J2で15位のチームだが、ここ数年でやっと戦えるようになってきたと感じる。やっと群馬らしいチームになってきたという実感がある」
地域密着するクラブとは群馬のサッカー文化や群馬サッカーの歩んできた道と歴史を感じるクラブでなくてはならない。
なぜならそれは「群馬」にあるクラブであるから、だ。
群馬の選手だけで戦うという意味ではなく、他地域出身の選手たちであってもザスパクサツ群馬を心から愛し、ザスパクサツ群馬のためにと汗をかける人間が集まらないことには、多くの人たちに伝えることはできないと菅原氏は強く言う。
それは選手たちだけでなく、フロントスタッフも含め一人一人が意識を強く持たないことには。
「多くの人たちに伝える側の人間がまず伝えないと。伝えるためには熱を持たないと」と、菅原氏は熱く語る。

急には強くなれない。
「だからこそ育成をして下の年代の強化をすることで、時間をかけてザスパのサッカーに反映されると思っている。
ザスパ単体の育成をどうにかしろという声も多くあるが、そう簡単にはいくものではない。
群馬には高校年代の歴史が深くある。前橋商に前橋育英、図南もあるし、高崎にもある。
ザスパクサツ群馬だけが良ければ良いということではなく、群馬全体の歴史があり、群馬全体を強化し、群馬にあるプロサッカークラブとしてみんなで手を繋いでいかなくてはならない。

自分たちだけが強く在ればいい。
群馬のその他のチームはアマチュアだから関係ない、ではなく
群馬にあるプロサッカークラブだからこそ地域と密着し、そういったひとつひとつのサッカークラブや高校と連携をして、群馬からのサッカーの発信を強くしていかなければならない。
そうすることで本当の意味でのサッカー文化が群馬に根付くことになるはずだ、と菅原氏は強い眼差しを持って語った―。

―2000年にはサッカーグラウンド1面しかなかった前橋周辺に、現在は20面のサッカーグラウンドが存在する。
それは当然、当たり前に生まれたわけではない。
群馬県、そしてザスパクサツ群馬としての発展の裏側を含め、後編に続く。

(Writing Tomoko Iimori / Photo Yuka Matsuzaki)

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