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【ザスパクサツ群馬】 山岸祐也 footballと共に生きてきた―。 掲げる理想へ近づく日々の挑戦 【J2】

2016/10/25 21:50配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム


サッカーを観る人たちの多くが、サッカーを観る上で一番目に付き わかりやすいのはゴールという活躍と共に
テクニックある選手のプレーではないであろうか。

観客をテクニックにより湧かせることのできる選手は、多くの人が特別な期待を抱くことができ、もっと観てみたいと感じさせる力を持つ。

今季ザスパクサツ群馬に加入し、大卒ルーキーとして注目される山岸祐也も そういった選手の一人である。
巧みにボールをタッチする姿に注目が集まる選手は、幼い頃からボールと共に生活してきたのであろうと想像させる。

流通経済大学から今季、ザスパクサツ群馬へと加入した
山岸祐也のルーツに迫った。

●生まれた時から当たり前に存在したプロサッカーの世界

「自分の記憶として覚えている幼少の頃には、もうボールを蹴っていた」
生まれてはじめて自分自身の記憶として存在する頃には すでにもうボールを蹴っていたと話す。
その頃から続く、サッカーボールを蹴る自分。
いつからサッカーを始めたということも覚えていないほど、山岸祐也にとってサッカーはとても身近なものだった。

生まれたその時には、叔父がプロサッカー選手としてたくさんの人たちの歓声を背にプレーしていたことで、当たり前にサッカーと近い生活が在った。
山岸の叔父である小松崎保氏は富士通のアマチュア選手として現・川崎フロンターレでプレーし、その後コンサドーレ札幌でプロ契約を結びプロサッカー選手となり、横浜FCでも活躍した後、現役を引退。
札幌大学にてコーチとして指導者の道を歩み始め、現在は金沢星稜大学サッカー部にて監督を務めている。

プロサッカー選手であった叔父と一緒に自然な形でボールを蹴る生活があり、日常に溢れるfootballが山岸にとっては当たり前の環境だった。

叔父がプロサッカー選手であったことで、自然にサッカースタジアムにも足を運ぶことが多かった。
身内であり一番近い憧れであった叔父がピッチでプレーする姿は、まだ幼かった山岸に強く刺激となり誇れる自慢だった。
小学生になると地元にあるJクラブ・柏レイソルの試合にも足を運び、たくさんの人たちが魂を込めて応援し特別な雰囲気溢れる「Jリーグ」というプロの世界に憧れを持った。

サッカー少年だった山岸の当時任されていたポジションは、ボランチ、トップ下、そしてセンターバック。
特別足が速い選手ではなかったが、基礎技術に非常に優れボールを蹴る止めるといった部分では特別に光るものがあった。
身近だからこそ憧れを持ったJクラブ柏レイソルの下部組織を目指しセレクションを受け続けたものの、一次試験すら通ることはなかったという。

中学生になり柏ラッセルで技術をさらに磨き、福島県・尚志高校へと入学。
全寮制の高校サッカー部へと進み15歳で親元を離れる選択をした。
中学時代、高校時代の山岸を知る人々の多くが、「とにかくやんちゃだった」と当時を振り返る。学校でも目立つ存在で、やんちゃながら自分を知る人たちにはいつも元気いっぱいで遠くからでも挨拶をして笑顔を見せた。
幼き頃から多感な時期まで一貫して周囲にも伝わっていた想いは「サッカーがとにかく好きだった」ということだった。
クラブでの練習の他にもボールを蹴る姿が至る所で見られたという。「絶対にサッカー選手になる!」それが口癖であり、決意だった。

尚志高校は高校サッカーでプレーする選手たちの目指す場所である高校サッカー選手権大会の常連校だが、山岸が入学した頃には常連校と呼ばれるまでの出場回数を重ねていなかったものの
これから、という著しい強化が目立っていたチームであり、3年時には選手権に3年連続出場すると山岸はチームに欠かせない中心選手として大会5得点を決め優秀選手に選ばれるなど大活躍し、チームとして最高順位となるベスト4進出という結果を残した。

高校3年生になる直前には、東日本大震災を経験。
親元から離れ福島県で生活していたからこそ、震災の影響や不安はダイレクトに響いたことであろう。
それでも共に日々戦ってきた仲間たちと上を目指すという目標は揺らぐことなく、関東に戻るという選択肢を持たずに福島の代表として戦った。
総体、そして選手権と優秀選手に選ばれチームも史上最高の成績を残すなど、高校サッカー界で注目選手として名の挙がる選手となった。
チームのために多くのゴールを決め、主軸となってチームを動かすその存在感は強く、記憶にまだ新しい。

高校卒業時、山岸は進路の相談をした際「関東1部リーグの大学へ進学したい」と申し出たという。
そこでいくつかの大学が示されたが、部員数も多く熾烈なポジション争いがあると聞いていた、流通経済大学に進学を決めた。

●イメージを持って挑んだプロの世界 厳しい現実を前に力となった大学の教え

自分に自信がなかったとしたら、流通経済大学には進めなかったかもしれない。
あえて部員数が一番多く、競争が激しいであろうと知る場所へと進むことを決意した。
その中で勝ち取れないならば、プロにはなれない。
プロへ行くためにはできるだけ多くの選手と競争し、その中で飛び抜けることが必要だと思った。

流通経済大学へと進学すると、全寮制のため再び寮へと入った。
1年生の夏過ぎにはトップチームの練習に合流すると、過酷なトレーニングが日々続いた。
230名を超える部員がいる中で、競争があることはあらかじめ理解しチャレンジしただけに「とにかくキツかった」と話すトレーニングをこなしながらも、自主トレや筋力トレーニングにも励んだ山岸。
関東1部リーグでそして目指すプロになるためには、もっと強靭な身体にしなくてはならないと自らの身体をいじめ抜いた。
流経大の先輩たちとの練習の中でも、関東1部リーグでの大学サッカー最高レベルである戦いも、そして頻繁に行われるJクラブとの練習試合でも絶対に負けない身体が必要だと感じた。

高校時代も恵まれた体格と評されながらも、高校卒業時には68㎏ほどだった体重が、大学卒業時には78㎏まで増量した。
大学サッカー生活で造り上げたフィジカル、そして自分自身で必要とし望んだ身体。
自分自身のプレースタイルが崩れないよう身体のバランスと相談しながら、より向上を目的とし必要であると感じたトレーニングを積み重ねた。
厳しい練習を前にキツイと感じることがありながらも、諦めず乗り越えていくことで自然に強いメンタルも身に付いた。

流通経済大学では2つ上の学年には椎名伸志(松本山雅→カターレ富山にレンタル移籍中)や中山雄登(ロアッソ熊本)らが、1つ上の学年には江坂任(大宮アルディージャ)、鈴木翔登(ロアッソ熊本)などがおり、総理大臣杯二連覇や流経大初のインカレ優勝という結果を共に刻んだ。
特に江坂とは縦の関係で位置し、江坂がトップ山岸がトップ下で試合に起用されることが多く、「その二人は常に中野監督から雷を落とされていた」と江坂・山岸共に口にするほど、大学時代の記憶として強く残っているエピソードでもある。
特に守備に関して中野監督はじめ川本コーチからも何度も何度も怒られ続けたというが、「プロになりJの舞台でプレーをするようになって、あの時怒ってくれていたことがより理解できるようになった。必要だったと実感している」
と、山岸は話す。
当時、江坂と組んでいたことで学ぶことも多く、共に怒られていることで同志のような感覚となり共に負けず嫌いの精神を持って立ち上がり、立ち向かう感覚があったという。

流通経済大学サッカー部創立50周年を迎えた 山岸祐也が4年生を迎えた代は、50周年にふさわしい年となるよう、逆算されたかなり早い時期からの強化と選手獲得に慎重となり進められた代であった。
結果的に4年生時には無冠で終わったものの、湯澤聖人(柏レイソル)、中村慶太、田上大地(共にV・ファーレン長崎)、J3には古波津辰希、西谷和希(共に栃木SC)と山岸を含め6名がJクラブへと進むなど、最強メンバーと言われた流経大の一時代を築いた。


ザスパクサツ群馬へと入団を決めた山岸は、イメージを持って群馬へと向かった。
「開幕からスタメンを勝ち取って試合にコンスタントに出場するというイメージを持っていた」と話す。
しかし、現実は厳しいものだった。

迎えた開幕戦。
スターティングメンバーとして試合に出場できなかっただけでなく、ベンチ入りも叶わなかった。
流経大はJ1の強豪クラブとも練習試合を行うことが多く、そこでやれるという感覚を持っていただけに自分はプロの世界でも変わらずやれると信じてイメージを持っていたが、現実は厳しかった。
第4節では初のベンチ入りをし、後半から途中出場したものの、試合は敗戦。
その後もベンチ入りしながら試合に絡めない日々が続き、再びベンチから外れるという厳しい時期を経験する。

「いろいろと葛藤する時期もあった」
というが、その時期を今振り返ると「大学時代の教え…というか、大学で当たり前のように身に付いたことが役立った」と山岸。
熾烈な競争がある中で少しでも練習中に気を抜くと必ず外されチームから落とされていく。自分が試合に出ていても出ていなくても目の前にある練習にすべてを出し、打ち込むことで
流経大・中野監督はそれを必ず評価してくれた。

試合に出場するというのは非常に大切なことであるが、そこに辿り着くまでのプロセスが大切であり、練習でできないことは試合でもできない。
だからこそ練習で必死のアピールを続けた。試合に出せば活躍するという印象を持ってもらうためには、練習から高い意識を持つことが必要と考え、日々の練習に取り組んだ。
13節でスタメン出場を果たすと、それから山岸はスタメンの一員として名を連ね続けている。
同期で入団した明治大卒の瀬川、駒大卒の中村と共に大卒ルーキー組はそれぞれの活躍を持って刺激し合い、活躍を魅せている。

J2というプロの舞台で戦ってきた今季。
「やれると感じる部分は多いが、ここはやれていないと感じる部分も明確になってきた」と自己分析する。

その中でもシビアに見つめているのは「数字」。
「前線を張っている以上、やはりゴール・アシストという部分にはこだわっていかなくてはならない」と話す。
プロサッカー選手の評価を高めるには目に見える結果が絶対的に必要であると常に意識を置いているという。
「もっとチームの中心選手になりたい」。
与えられた前線のさまざまなポジションをこなすことができる山岸だが、チームの主軸になるような選手になることに意識を置いている。
ゴール、アシスト…得点に直接結びつくようなプレーをもっと増やさなければならないと目標は常に高い位置に持っている。

自身が掲げた今季の目標は7ゴール7アシスト。
残り試合が少なくなっているものの、少しでもそれに近づけるよう自身に厳しい目標を課している。

常にチャレンジを続けてきた。
高校選手権で活躍しても、大学サッカーで優勝しても、満足することはなかった。
まだまだ上を見ているからこそ、立ち止まらずにやってきた。
手の届かない場所はない。手を伸ばした先に届くか否かは、自分次第であると学んできた。

ザスパクサツ群馬では今、なくてはならない存在となりつつあるが、まだまだ理想には届いていない。

小さな頃、たくさんの人に応援されるピッチの上に 身近な憧れの叔父が輝いていた。
プロサッカー選手になりたいと決めたタイミングはわからない。
気づいた時には、サッカーボールを蹴っていた。
気づいた時には、サッカー選手になりたいと口にしていた。

―山岸祐也は、今日も自身の理想に近づくため、力強くサッカーボールを蹴っている。

(writing Tomoko Iimori / PHOTO Yuka Matsuzaki)

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