【松本山雅】 阿部吉朗、現役引退―。 プロ第一号選手として全うした流大プライド 恩師への報告 【RKU】
2015/12/04 22:23配信
カテゴリ:コラム
この時期は嫌な時期だ。
契約満了や移籍、引退などの話が連日飛び交う時期に突入したが、
プロサッカーというスポーツにおいて避けては通れない時間だとうことはわかっているが、
その現実に目を背けたくなる時期である。
先日。
現役引退を発表した選手がいる。
松本山雅。阿部吉朗。
7チームを経験した35歳のFWは、14年の現役生活を終える。
●プロ選手を一人も出していない大学で目指したプロへの道
流通経済大学サッカー部。
現在は常に200名を越える部員たちが在籍し、プロサッカー選手になることを目標に置き、目指す。
流経大サッカー部に入りたいという選手が全国から集まり競争となる、言わずと知れたサッカー名門校だ。
プロサッカー選手を70名以上輩出している名門校であり、毎年のようにJリーガーを複数輩出し多い時には13名もの選手をプロへと送り出してきた流経大だが、
サッカー部創立初のJリーガーの誕生となったのが、阿部吉朗だった。
中野監督が流経大の監督に就任したのは、1998年のこと。
当時の流経大サッカー部は、現在のプロ顔負けとも言える環境のひとつもなかった時代。サッカー強化とは無縁のなにも整ってはいない環境であり状況だった。
部員たちは改造車に乗り、夜遊びをして酒タバコも当然のようにたしなみ、練習に来ないことも当然のことのようにあった。
監督自ら部員の家へと出向き、練習しようと引っ張り出した。
阿部吉朗が流経大サッカー部へと進んだのは1999年のことだった。
高校生だった阿部に声をかけた中野監督は、阿部に「プロになれますか?」と質問されたという。
流経大サッカー部からプロ選手は一人も出していなかった当時。
中野監督も就任してまだ1年目のことだった。
プロになれるかはわからない。ただお互いに最大限の努力をしよう。
そう、伝えたという。
阿部は愛媛県、大阪府で幼少期を過ごしたが、小学生の頃に茨城県つくば市へと引っ越し、どちらかというとサッカーではなく野球の名門校として知られる常総学院でサッカーをしていた。
茨城県選抜として国体に出場した経歴を持つが全国的に見て無名の選手だった。
常総学院へと出張指導として出向いていた中野監督の目に阿部の姿が留まった。
サッカーに対する姿勢や意識、身体の強さやゴールに対する嗅覚等、阿部を評価した。
包み隠さず、流経大の現状を阿部に伝えた。
尊敬できる先輩もいない、ヤンキーばかりで練習環境も整っていない。タバコを吸い酒を飲む選手たち。
改造車を乗り回し練習にも出てこないこともある。コーチもいない。
そういった当時の流経大の現状を伝えた上で、阿部を誘った。必要であると熱意を持って伝えた。
阿部は、中野監督の言葉の未来を信じた。
当時はまだ県リーグ、プロ選手を一人も出したことのない大学だったが、それでも阿部は中野監督の
関東2部に上がって、いずれは関東一部で優勝したい。
と、いう言葉を信じ、この人ならと大学進学を決めた。
●激動の中、ストイックに目指したプロへの4年間。流経大プロ第1号選手実現。
当時の流経大は、すべてのことに着手しなくてはならなかった。
選手たちの意識の向上や、サッカー強化への練習内容の改善、環境の改善など、たった一人で切り開き取り組むというのは想像もできないほどに、過酷で難しいことだったであろう。
時間が24時間では足りないと感じるほどにサッカー部のこれからにすべてを懸け奔走する中で、中野監督は阿部吉朗に、1つ1つ丁寧に指導をし続けた。
一人にかける時間が長いことで、他の選手から見ると贔屓のように感じたかもしれないと中野監督は話す。
それでも中野監督にとって、一人に伝わらないものは全員に伝えられないと感じ、まずは阿部をプロ選手として声がかかるまでに育てようと、ひとつの目標を掲げていた。
だからといって、阿部だけにかかりきりになったわけではもちろんない。
その間に寮を建設したり、全寮制へと移行したり、練習環境を整えたりと反対意見も多くある中で、数々の困難を乗り越えながらも
チームとしての育成、そして阿部への指導も徹底した。
先輩たちはサッカーへ向かう意識としてはまだまだ低く、多感な年代である選手たちの多くはそれに流されてしまう傾向にあったが
阿部は常に、プロ選手になる意識を持ってストイックな生活を送っていた。
中野監督は、阿部に相談されたことがあるとひとつのエピソードを思い出し語った。
その相談とは恋愛についてのことだった。
彼女を作ってもいいかという相談だったが、流経大は恋愛を禁止していたわけではなかった。
阿部のストイックさを当然理解していた監督は、もちろん良いと思うと答えたが、
阿部は結局、彼女を作ることはなかったという。
彼女を作らなかったからといって、それだけでプロサッカー選手になれるわけではない。
だが、プロサッカー選手になるために集中したいという強い意識が阿部にあったからこそ、自ら選択したのだ。
19歳から22歳までの恋愛も遊びも一番楽しい時期。その期間をプロになるための期間と定め、意識高く日々に取り組んだ。
その姿を見ていた中野監督は、
今の流経大の環境や状況であれば、プロサッカー選手になるために来ている選手たちが多いこともあり、競争も激しい分、意識を高く持たなければと自然に当たり前のように「意識」は存在する。
が、当時の流経大でその意識を持って日々を送れる選手はいなかったが、吉朗がそういう意識で日々を過ごすことで周りの選手たちも全員ではないものの一生懸命にやりプロになれるかもと目指す選手も増えていった。
吉朗のやってきたことは、並大抵の努力じゃなかったし、簡単なことではなかった。
と、振り返った。
現在は関東1部12チーム、関東2部12チームというチーム数だが、当時は関東1部8チーム、関東2部8チームというチーム数だった。
1部・2部の関東ベスト16に入ることがとても難しかった時代であったが、流経大は阿部吉朗をエースに4年生時には2部リーグ得点王となり、ベストイレブンにも選出された。
デンソーカップ・日韓定期戦では大学日本代表へと選出され、2得点を決めMVP。高校時無名だった阿部は大学での4年間を経て、大学№1FWとして注目される選手となった。
関東選抜でのプレーをみたことで現在セレッソ大阪の監督であり当時FC東京強化部であった大熊清氏の目に留まり、練習生としてFC東京の練習試合へと出場させると
練習試合で4得点を挙げるという活躍をみせた。
シーズン途中での契約を東京側は求めたが、阿部は流経大での仲間たちそして中野監督との戦いを優先し大学4年を全うすることを決断、FC東京へは特別強化指定選手として登録された。
東京の一員としてデビュー戦となった初の公式戦の天皇杯・湘南ベルマーレ戦にて、阿部は2得点を決めるという強烈なデビューを果たした。
はじめてプロクラブから阿部がほしいと言われた時のことは、一生忘れられない。
本当に嬉しかった。
そう中野監督は、思い出を振り返るように懐かしむ。
阿部吉朗がいなかったら、自分は今ここにいなかったかもしれない。
ここまでやってこれているのも、阿部吉朗がいたから。
そう中野監督は、言い切った。
吉朗が、引退するんですよ。
そう中野監督は想いを噛みしめながら、言葉にした。
その表情は淋しそうにも、阿部を誇らしむようにも見えた。
中野監督の自宅へと家族を連れて訪れたという、阿部。
毎年のように家族を連れて、中野監督の自宅を訪れることも恒例となっているが今年はちょっと時期が違った。
訪れた際に流経大の練習があると、流経大の部員たちの練習に参加し、選手たちに直接アドバイスを送る。
阿部の在籍していた頃よりももっともっと大きくなった流経大だが、たくさんの後輩たちに自分の経験を伝える先輩だ。
阿部は、流経大の原点である自分という責任を常に背負い、プレーしてきた。
流経大でプロ選手を目指す選手たちが見つめる先として、自分の姿をみているという緊張感と責任感を持ってピッチに立ってきた。
昨年。
引退しようと思っていると、中野監督の元を訪れ相談した阿部。
その決意は強いものだったと思うと中野監督は言う。
しかし、中野監督は阿部にまだプレーしてほしいと願った。
阿部は中野監督の言葉で高いモチベーションを持って、松本山雅へと移籍。
阿部は引退を決断せず今季、現役を続行させ松本山雅初のJ1の舞台でプレーした。
厳しい戦いも多かった今季、現役最後として向かった試合もあった。
だからこそ、すべてを出し切り阿部吉朗は走り続けた。ゴールへと向かい続けた。
阿部は恩師である中野監督に言った。
今季で引退します―。
中野監督は言う。
去年引退しようと決めていたところから、まだプレーしてほしいという言葉を受け入れてくれた。
まだやってほしい、吉朗にプレーしていてほしいという気持ちはあるが、吉朗が決めたことだから受け入れた。
本当に今までよくやってくれた。
いろんな思い出を思い出しますね。
吉朗は誇りです。
本当に、ありがとうと伝えたい。
流経大から70名以上のプロ選手が輩出されているが、阿部吉朗は誰よりも特別だと言い切る。
一人一人プロになったか否か関係なく、思い入れは当然ある。
4年間親元を離れ親がわりのように責任を持って、一人一人の選手たちに接しているからこそ、それぞれに想いがある。
だが、阿部吉朗だけはやはり特別であると中野監督は目を細め、話す。
今の流経大サッカー部は、阿部吉朗がプロ選手になったからこそ、今が在る。
吉朗は特別なんですよ、と。
14年という現役生活。そして7チームでプレーしてきた阿部吉朗。
それぞれのサポーターに期待され、FW気質をしっかりと持ち、数々のゴールという歓喜を生み出し、愛されてきた。
吉朗は言うんです。
自分の原点は、流経大だと言ってくれるんですよ。
そう話す中野監督は、はじめてのプロ選手となった阿部の引退を前に
少し淋しそうでありながらも、お疲れさまという愛情を込めた表情で、どこか嬉しそうに阿部吉朗を語っていた―。
今シーズン一番プロフェッショナルな選手でした。
出場すればキッチリ結果を出した一番信頼できるFWでした。
まさか引退とは・・・。
本当に心意気で山雅に来てくれたんですね。
お疲れ様でした。
名無しさん | 0 0 |2015/12/14|07:05 返信
阿部ちゃんは特別強化指定ではなく、契約選手として天皇杯に臨みましたよ。そこで2ゴール。湘南には負けてしまいましたが、鮮烈な印象を僕らに残しました。
名無しさん | 0 0 |2015/12/05|05:11 返信