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【ザスパクサツ群馬】 永井雄一郎 「とにかくサッカーがしたい」 36歳の 今。 【J2】

2015/12/01 21:55配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム


永井雄一郎―。

この名前は日本サッカーの歴史を振り返る上で、絶対に名を挙げることとなる選手の一人である。
それだけ深く日本サッカーの発展に、そしてJリーグの発展に関わってきた選手だ。

現在の所属は、J2ザスパクサツ群馬。
18歳でプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた永井は、12年在籍した浦和レッズ、続いて清水エスパルス、横浜FCでプレーし、昨年はJリーグではなく地域リーグのチームであるアルテリーヴォ和歌山へと所属し、
今季、ザスパクサツ群馬の一員となり自身17シーズン目を戦った。

チーム最年長選手ながら、誰にも負けない貪欲さと探求心を持っていた―。

永井雄一郎の「今」。

正田醤油スタジアム群馬のピッチで大きな声が響いていた。


●日本サッカー界を動かした歴史上の人物「永井雄一郎」


振り返ってみると、センセーショナルなそのデビューからもう17年もの月日が経ったのかと思うと、時の流を感じずにはいられないが、永井雄一郎は今でも当時直感で感じさせた独自のカッコ良さを今でも感じさせる。
もちろん当時は若く、今よりも甘く、今だからこそ感じられるオーラや空気感とはまた違った印象だったものの、当時の永井あってこその今を感じることのできる姿と表現するのが適するであろうか。
良い意味で、変わらない姿を思わせる姿だというのが、群馬の地での永井を観て感じた印象だった。

永井雄一郎のデビューは、人々の記憶に残る鮮烈なデビューだった。

日本代表のディフェンダーとして君臨し、アジアの壁とも称された現アビスパ福岡監督の井原正巳、ガイナーレ鳥取の監督も務めた小村徳男という当時の日本最高峰とも言えるディフェンスを有した横浜マリノスを前に
18歳の高卒ルーキーがデビュー戦ながらゴールを決めるという衝撃の記憶を刻んだ。
日本サッカーはその年、W杯フランス大会予選を戦う年であったため、日本中がはじめて青く染まる現象となるなど、サッカー人気がヒートアップしている矢先、強烈な印象を残したルーキーとなった。

まだ当時はプロへと昇格する道の主流ではなかったもののJ下部組織のクラブユースや、プロへの登竜門の主流のひとつとなっていた名門高校サッカー部、どちらの出身でもなく伝統あるサッカークラブ三菱養和からプロサッカー選手となった永井。
衝撃のデビューからの活躍により18歳で飛び級ともいえるひとつ上の世代のワールドユース(現U-20W杯)に出場。
ドイツへの留学を経て、J2降格危機の浦和レッズに復帰。
その後、黄金世代と呼ばれるワールドユース ナイジェリア大会にも出場し小野伸二や稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二らと共に世界2位という日本サッカー史上はじめて世界のトップに近づいた大会で、主役の一人となった。
このワールドユースでチームメイトであり同部屋だったのが、現ザスパクサツ群馬でコーチを務める氏家コーチだった。
運命の巡り合わせ。この時共に戦っていなければ、現在ザスパクサツ群馬に永井が在籍することに繋がらなかったのかもしれないと考えると、footballを通じた出会いの数々はとても貴重で大切なものであろう。

浦和レッズで活躍を重ね、日本中が蒼く染まり全国がひとつになった日韓W杯が終わった後、次世代が期待されたジーコ監督率いる日本代表に招集され、
歴史的な韓国での日韓戦にて、試合終了間際に得意のドリブル突破から相手のミスを誘い代表デビュー戦ながら歴史的なゴールを決めた。
ジーコジャパンを初勝利に導き、宿敵ともいえるライバル韓国相手にアウェイで勝利する決勝点となるという記憶に刻む活躍だった。
このゴールを永井雄一郎という選手の記憶として、一番強烈に覚えているという人が多いのではないであろうか。

浦和には12年間在籍した。
激動した数々の出来事。浦和の歴史の中でも急激な成長期となった一時代だった。
J2降格、J1昇格、リーグ優勝にナビスコ優勝、天皇杯優勝、ACL出場に、日本勢初となるACL優勝、そしてACLでのMVPも日本人選手として初の獲得。
クラブW杯では3位となる戦いにも大きく貢献した。

クラブとして発展途上中だった浦和レッズから、降格昇格を経験し、リーグトップの強豪クラブとなり、世界と戦うまでの
浦和レッズを語る上で決して外すことのできない激動の数々を 主力選手として、チームの顔として戦った選手である。

ミスターレッズこと福田正博氏の背番号「9」を、はじめて引き継いだ2代目ミスターレッズ。
浦和レッズでプレーした日々は、日本サッカーを大きく動かし発展させるほどの大きな力となった。

12年間プレーした浦和を離れ、清水エスパルスへと移籍。
その後、J2横浜FCでもプレーし、昨年は地域リーグのチームであるアルテリーヴォ和歌山に移籍し、プロリーグではない場所でプレーするという道も歩んだ。
地域リーグからJリーグを目指すクラブ。Jリーグから離れJリーグを改めて目指すという目標を持ち挑む場となった。
JリーグにはJ1、J2に加え、昨年からJ3が新設されたが、その下にさらにJFLがあり、地域リーグはその下の9つの地域に分かれたリーグとなっている。
上から数えて5部ということになるが、Jの舞台から地域リーグのチームというのは相当な違いが生じる場となる。

なぜ引退しないのか―。
そう感じたサッカーファンも多かったかもしれない。

しかし、永井の中にはサッカーをやめるという選択肢は存在しなかった。

地域リーグである和歌山はどんな場所だったか―。
その率直な質問をすると、穏やかにどこか懐かしむような顔で振り返り、語った。

和歌山での日々は、プロでの生活とはすべてが違っていた。想定していたよりももっと。
環境はもちろん整ってはいないわけです。
専用の練習施設を持っているわけでもなければ、クラブハウスも存在しない。
ボールも自分たちで運び、練習着も何枚もあるわけではなく着替えも自由にできるようなことはなかったし、シャワーも浴びることは難しい。

でも、みんなサッカーが好きなんだなってことを日々感じることのできるチームだった。

そう、和歌山での日々を振り返った。

地域リーグのほとんどのチームの選手たちは、働きながらサッカーをする。
しかし、片手間に取り組むほどの力の入れようでは、上に進むことのできない厳しい戦いが続く。
JFLという次なるステージに進むためには、地域のリーグで優勝すること、そして全国の地域リーグのトップたちとの戦いに勝たなくてはならない過酷な世界だ。
地域リーグの戦いを世界で一番過酷な戦いと表現することもあるように、その現実は過酷だ。

Jリーグへの道はそのさらに先。
Jリーグで戦う選手たちのほとんどが、そのように過酷なJリーグへの道を体感したことも、知ることもなくプレーしている。

永井は、自分がプレーしてきた場を目指すという立場になって、環境も状況も全く違う世界で戦った。

プロに比べると当然スピード、判断、プレーの質やメンタル等、すべてが足りないと感じたが
それでも本当に心からサッカーが好きで、サッカーをしているという気持ちを一番強く感じた場所だったかもしれない。
損得ではなく、純粋なfootballへのリスペクトがそこには在った。

アマチュアという舞台であっても、永井はプロサッカー選手というプライドを持って、日々トレーニングに取り組んでいた。
地域リーグという場所にいながらプロ基準でトレーニングを行うということは、決して簡単なことではない。
「サッカー選手 永井雄一郎」としての未来をまだまだ自分自身が切り開く覚悟を決めていた。

●5チーム目の挑戦 経験を経たからこそ自分に日々感じる可能性


2015年シーズン。
ザスパクサツ群馬でコーチを務め元チームメイトでもある氏家コーチから、チャンスを与えてあげられるかもしれないという連絡があった。
その連絡を受けて、永井は挑む気持ちを持ってすぐに参加を決めた。
ザスパクサツ群馬のキャンプに、練習生として参加したのだ。

一年地域リーグでプレーし、プロの舞台から離れた永井だったが、再びJの舞台へチャレンジできるチャンスを得た。
Jリーグから離れたことで見えた、プロサッカークラブ、プロサッカー選手であることという想いをすべて背負い、挑んだ。

その時の事を振り返ると、強くこう言葉にした。

「必ずここでチャンスを掴むという強い意気込みを持って、すべてを懸けて必死に取り組んだ」―。

永井雄一郎のチャレンジが結果を実らせ、ザスパクサツ群馬への加入が決まった。

チーム最年長であり、永井雄一郎という大きな存在を憧れという存在として見てきた選手も多くいる。
その存在感を前にどうチームメイトとして扱っていいものかと戸惑う選手もいるかもしれない。
大抵は時間が解決してくれるものだが、氏家コーチからも積極的に他の選手たちとコミュニケーションを持ってほしいと話があったという。
永井自身もそれが必要なことだと理解し、それを念頭に置きシーズンを過ごした。


チームメイトと良い意味で閉鎖的に過ごすキャンプがあり、加入が決まった後しばらく寮生活をしたことも、今振り返ると距離を縮める良い機会だったのかもしれないですね、と永井。
複数のチームでプレー経験のある永井はそれぞれのチームにそれぞれの印象を持っているが、群馬は若いチームながら、その中に可能性を持つチームであると永井は受け止めた。
若い選手だけに可能性があるわけではない。何歳になってもチャレンジし続けたい永井は自分自身にも可能性を感じていると言う。

練習場もクラブハウスもクラブ所有のものはなく、毎日練習場が変わったりとまだまだ発展途上のクラブだが、
サッカーができるということに歓びを感じ、日々まだまだ「うまくなりたい」と貪欲に自分を追求している。

今までサッカーをやめたいと思ったことはないと一度言った上で、永井は訂正した。

ACLでチャンピオンを獲り、迎えたクラブW杯で世界のビッグクラブとの対戦をした時。
なにもかもが違うという、はじめて感じる大きな壁を痛感したと話す。

あの時は、俺このままサッカーやっても、ここまでにはなれないなという「限界」にはじめてぶつかった。

そう永井は振り返る。

永井はその時、プレーヤーとして全盛期と言われるであろう時期を迎えていた。
それでも永井は、大きく広い「世界」を実際に対戦し感じたことで、このままサッカーをやっていて意味があるのかと、自問自答をしたことがあるという。

今までたくさんの壁にぶつかってきた。
大きな怪我でピッチを長く離れたこともあった。
それでも、どんな時でも「サッカーがしたい」という気持ちが溢れ、ピッチに戻る日を目指して努力を積み重ねた。
それが困難を乗り越えるために、一番必要なことだった。と、永井は話す。

その永井が、はじめて感じた「限界」という壁。

サッカーをやめようかな、と一度頭に浮かんだ「経験」だ。

幼い頃から当たり前のように存在する「サッカーをする自分」を手放そうとしたほどの衝撃が世界にはあったのだ。

しかし、永井はサッカーを続けた。
その一度の大きな壁との衝突以来、一度もサッカーをやめたいと思ったことはない。
選択肢として持ったこともない。

永井は今、36歳を迎えた。
サッカー選手としてはベテランと呼ばれる年齢となった。
それでも毎日、思っていることがある。

自分はもっとうまくなれる―。

様々な経験をしてきたが、その経験があるからこそ、それを得た自分はもっとうまくなれるはずだと思っている。と、永井は言った。

まだまだこれからの自分に楽しみを持ってやっている、とにかくサッカーがしたい。

そう言うと、永井は笑顔になった―。


取材をした日は11月12日だったのだが、前日の11月11日。
伝説ともいえる背番号「11」にこだわった11月11日、横浜FCで共にプレーしたこともある日本サッカーのキングこと、三浦知良選手の契約更新があった。
そのニュースが刺激になったと、永井は話した。

カズさんの契約更新のニュースを見て、自分もまだまだやりたいという気持ちが高まった。
カズさんという偉大な選手と共にプレーできた日々は、自分がもっとサッカーをやりたい、もっとうまくなりたいという気持ちにすごくプラスになった。

キングと共に同じポジションで競争をした日々も、貴重な「経験」。
どの経験も「今」に繋がっている。


ザスパクサツ群馬でも、永井雄一郎は走っていた。
ボールを追って、ボールを蹴って、声を出していた。

永井雄一郎の、今。

それは、まだまだうまくなりたいと貪欲に求める
プロサッカー選手の姿だった―。

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来季はぜひゴールを決めてザスパ草津をJ1へ連れて行ってください。

ザスパーク  Good!!1 イエローカード0 2015/12/06|16:51 返信

ぜひザスパでの得点が見たいです。来シーズンも頑張ってください。

うっち  Good!!0 イエローカード0 2015/12/06|04:01 返信

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