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【名古屋グランパス】 小倉隆史だけが描けるfootballの実現へ あの怪我があったからこその「今」そして「未来」 【J1】

2015/10/28 22:19配信

飯守 友子 (CHANT編集部)

カテゴリ:コラム


ブチッ…

人間の身体からこんな鈍い音がするのかというような衝撃的な音が響いた。
倒れ込み悶絶する姿までをも当時は放送され、日本は世界と戦えるであろう将来のエース候補を怪我という形で突如として、失った。

右後十字靭帯断裂。内外側の半月板と関節包の損傷、そして頸骨亀裂骨折半月板損傷も伴っていたその大怪我は、
選手生命だけでなく、日常生活すら通常に戻るか否かもわからないという大怪我だった。

最初の診断では全治半年、その後は通常通りにプレーできるという診断だった。
しかし、手術は失敗に終わった。復帰するまで要した時間は2年半。
奇跡がなければ復帰は難しかったであろう。

2005年に現役を終えてから10年の歳月が経った。
小倉隆史がはじめて監督という立場で、プロになった場所である名古屋グランパスを率いることとなったという。
レフティモンスターの監督就任に不安を口にする人も多く、指導者としてのなんの実績もない小倉に不安を抱く人も多いであろう。

しかし、彼がピッチで叫び続けてきたことが実際にピッチで表現されるかもしれないと考えると
日本のサッカーを変えるような大きな仕事をこなすかもしれない。

レフティモンスターにしか見えていなかった「世界」がある。

大きな怪我を抱えながらも復活し、ピッチに立ち続けた小倉が本当に見たかったその先を
監督として表現することが、できるのであろうか。

●芝を拳で叩き、サッカーの神様へ向け、自分はなにかしたかと叫んだあの日。

小倉隆史の名が全国に伝わったのはJリーグが開幕する前年、プレシーズンとしてはじめてJリーグ参入クラブで行われたナビスコ杯が行われる年の1月のことだった。

舞台は高校サッカー選手権。
当時Jリーグが開幕する前のサッカー人気がない頃でも、お正月のスポーツといえば箱根駅伝、ラグビー花園、そして高校サッカー選手権と
スポーツ冬の風物詩ともいえる大会に世間の注目が集まるのは、恒例となっていた。
さらにその時、Jリーグ開幕のプレシーズンということもあり、選手権への注目は一層高きものとなっていた。

その年、勝ち上がり話題となったのは三重県代表の四日市中央工業高校。
今でも強豪校として名高いが、四中工といえばこの世代というように当時のエース小倉隆史、中西永輔(その後ジェフ千葉、横浜Fマリノス所属、元日本代表)、中田一三(その後横浜フリューゲルス等)は四中工三羽烏と呼ばれ
それに加え島岡健太(その後鳥栖、現関西大監督)と、評価高き選手たちを揃え決勝まで駆け上がった。

特に小倉隆史はエースとしてゴールを量産したこと、見たことのないような独自のリズム感など、サッカーを知らない者にとってもこの選手は違うと思わせるプレーをしていた。

選手権を帝京高校と共に両校優勝という結果で飾り、その後名古屋グランパスへと入団。

小倉はプロになるとすぐに日本のサッカー界に大きな影響を与えるであろう頭角を現し、
プロ2年目には留学という形でオランダへと飛んだ。
当時2部だったオランダ・エクセルシオールにてプレーをするとオランダにとんでもない日本人が来たと話題になるほどにゴールを量産し、活躍。
31試合14ゴールという記録から観てもその活躍は目立つものだったといって良いであろう。
小野伸二がフェイエノールトへと移籍した際、日本人といえばオグラだ!と言われたという話もあったほどに、オランダで日本人=小倉隆史という強烈な印象を残した。
日本から来たオグラタカフミの名前はオランダに刻まれるほどに、大きな衝撃を与えたのだ。

この活躍が大きく、小倉が高校時代から強い憧れを抱いてきた蒼きユニフォームと関わることに繋がった。
それと同時に小倉には大きな使命が課せられた。

それはアトランタ五輪出場。
日本は今でこそ五輪出場というのは最低限のラインであるかのような連続出場となっているが
当時は28年もの間、日本サッカーは五輪から遠ざかっていた。
サッカーリーグをプロ化するにあたり五輪出場は日本サッカーにとって大きな一大プロジェクトだった。

日本の育成システムであるトレセン制度が生まれ、日本サッカー全体が大きく動き育成してきた選手たちが初めて迎えることとなる
大きな大会でもあったため、アトランタ五輪へは絶対的に出場したいというプランがあった。
その中心として考えられていたのがその世代で一番年上となり、エース候補として考えられていた小倉隆史だった。

レフティモンスターと呼ばれる左足から繰り出されるボールは、日本人選手にもアジアの選手にもない独自の世界観を持っていた。
世界と戦える選手となりえる素材が、日本サッカーから生まれたのだ。

名古屋グランパスにストイコビッチが入団すると、その異次元なプレーに楽しそうについていく小倉の姿があった。
日本人プレーヤーでは小倉の持つ世界観を表現しきれていなかったのだと痛感するほどに、ストイコビッチとの共演は「世界」を感じさせるものだった。
世界を経験した妖精ストイコビッチにサッカー感としてついていけるのは小倉だけなのかもしれないと感じるほどに、その華麗な連携は見事なもので、ストイコビッチからの要求や意見も直立不動で真剣に聞き、自分のプレーにいかした。

しかし―。

アトランタ五輪への道がスタートし、最終予選を迎える直前。
マレーシアでキャンプ中、…起きてしまった。

悶絶するその姿から、これは大きな怪我になると伝わってきたが
後十字靭帯断裂、靭帯全断という悲劇となっていたとはだれもが思わなかった。

後十字靭帯。
前十字靭帯断裂も大きな怪我であり、毎年サッカー界ではその悲しく悔しい怪我の報告がされている。
サッカーをする限りどうしても付き物となってしまうリスクが大きな怪我のひとつだ。
十字靭帯を怪我してしまうと元のようにプレーすることも難しいとされる怪我ではあるが、近年のスポーツ医学、リハビリ技術や経験から
簡単ではないもののプレーヤーとして戻ることができるようになってきた。

しかし、後十字靭帯はそれ以上に難しい箇所といわれている。
身体障がい者登録になることもあるほどにその経過は難しく、当時のスポーツ医学ではかなり難しい怪我だったと言えるであろう。
全治半年と出た小倉の怪我だったが、再起までに2年半もの時間を費やすこととなった。

日本で受けた手術後、リハビリをし順調に回復していると思われていたが10か月後、膝に水が溜まりパンパンに腫れて動かなくなってしまった。
それは最初に受けた手術の失敗を告げていた。
自らの怪我を治す場としてオランダを選択した小倉は、オランダへと渡り診断を仰いだ。
すると手術で繋げた人工靭帯は切れている、そして軟骨はボロボロになっていると告げられた。
唯一の可能性として軟骨に3か所の穴をあけ、自然蘇生することを待つ方法があると医師に伝えられた。
3か月待って自然蘇生することができていたなら、もう一度靭帯再建手術を行うことができる。
もし蘇生しなかった場合は。
サッカーをやめるという道しかないという非情な宣告が遠くオランダでされていた。

半年で治ると思っていた膝は、ボロボロだった。
信じて待った3か月後。奇跡的に軟骨が自然蘇生し、改めて再建手術を受けられることとなり、
3度目の手術を受けた。

●「あの怪我」があったからこその「今」

その後、オランダで一人生活をしながら、リハビリの日々を続けた小倉。
人間強くポジティブだけでいられるものではない。異国の地であるからこそ、なかなか先に進めない状況の中でメンタルと闘った日もあった。
サッカーをするために。
その気持ちだけで苦しく孤独な日々を耐え、復帰に向けて少しずつ前進した。

そして2年半の歳月を経て、小倉隆史はピッチに立った。
しかし、元通りとはいかなかった。
調子は決して良くはなかった。


どこへいっても耳にすることとなる
「あの怪我がなかったら」
という言葉にうんざりする日もあったであろう。
小倉隆史は、日本でプレーするためピッチに立ち続けたが、それでもついて回るのは次世代のエース候補だった「はず」の人という看板だった。

その大きな看板を背負ってプレーしていくというのは想像を絶する重みだったはずだ。
大きな怪我をしていなかったら―。
そんなことを考えても仕方ない、前を向いているにも関わらず周りがそう煽ってくる。
サッカーをやっている限り、そこからは逃げられない。

それでも小倉はJリーグでプレーし続けた。

確かに、ピークに比べると劣るかもしれない。
それでも小倉のプレーはトリッキーで技術高く、視野も高く確保され、そんなところも見えているのか、そんなところにボールが出るのかと驚かされる
数々のプレーを魅せてくれた。

名古屋グランパスを後にすると、ジェフ千葉では中西、中田一三とともに三羽烏が揃ったこともあった。
ジェフでの活躍があったにも関わらず構想外と告げられるとサポーターの中では大きな署名運動が起こるほどに愛された。
最終的にフロントを覆す形で、残留要請されたが小倉はそれを固辞。一度切ると言われたからこそ、サポーターの愛は嬉しくとも残るわけにはいかないというプロ意識があった。
その後、東京ヴェルディでは難しい状況のチームを救うために全力を尽くし愛され、コンサドーレ札幌では四中工時代に背負った背番号17を背負い、改めて初心に帰るという形で、若いチームをけん引した。

毎日遅くまで練習場に残った。
それは膝のケアに時間がかかるからだった。
サッカーをするために立ち続けた小倉だが、サッカーをするために多くの時間を費やしケアをしなければ立ち続けることはできなかった。
それでも小倉はその時間をマイナスに表現したことはなかった。
いつでもチームの先頭で大きな声を張り上げ、大きくジェスチャーを加え、チームの中でプレーヤーながら
指導ともいえるアドバイスを送り伝え続けた。

札幌時代には
2002日韓W杯が開催されたが、札幌ドームでのイングランド×アルゼンチンという世紀の対決の日。
当時、前十字靭帯を断裂し、手術後でまだ松葉杖の若手選手がいたのだが、その選手を背負い、札幌ドームの長い階段を小倉隆史が昇っていた。
申し訳なさそうにする若手選手に、小倉は大丈夫だトレーニングだと笑いながら背負い階段を上っていた。
世紀の一戦の試合後、小倉はその試合に訪れていたストイコビッチと共に、世界のサッカーを語らった。
松葉杖の若手選手を背負い札幌ドームを歩いたその疲れを微塵も見せずに。

プレー中は誰よりも厳しく、プレーの質にこだわる選手であったが、チームメイトを大切にする選手でもあった。
スタッフにもよく声をかけ同じ時間を過ごし、チーム全体をまとめる役割を自らがかっていた。
時にそのトリッキーすぎると表現されるプレーに、小倉はチームの輪を乱すと表現されたこともある。
しかし、小倉は自分のプレーを通すためにそうしていたわけではなく、自分のプレーを下げて合わせるのでは向上にはならない、チーム全体の質を上げるために
こういったところも見えていないと、こういったボールに反応ができないと、こういった選択肢も持っておかないと、とメッセージを送り続けていたのだ。
試合中であっても大きなジェスチャーを加えて、なぜ!?を繰り返した。
それが協調性を欠いているように見えたこともあったかもしれない。
しかし、それは小倉のメッセージであり、チームを高めるために必要な行動だった。

何度も繰り返すことで、そこに一本のボールがチームメイトから出たときには
小倉は全身を使ってその選手を褒め讃え、顔をくしゃくしゃにさせ、喜んだ。

ヴァンフォーレ甲府で現役を引退。
その後はテレビ番組やサッカー中継の解説などでサッカー界に関わり続けた。
多くのサッカーファンにはその印象が色濃いものとなっており、現役時代を知る人は少なくなったかもしれない。

しかし、小倉隆史はその裏で努力を続け次なる目標へ向けてしっかりと歩んでいた。
現役時代から重ねたライセンス取得のための日々。
S級ライセンスを取得したのも、未来を見据えてのことであったはずだ。
日本のサッカーに自分なりの指導をしたい、今後の日本サッカーに関わりたいと思い続けてきたからこそ
決してラクではないライセンス取得を歩んだはずだ。

「あの怪我がなかったら」
何十年もそう言われてきたであろう。
自分自身、そう考えたことも何度もあったかもしれない。

しかし、
「あの怪我があったから」
こその経験だって積んできた。
大きな怪我をした選手の気持ちも、複数の立場や規模の違いがあるチームの環境やチームの在り方も
選手たちの意識や質の違いも実際に経験してきた。

ピッチの中で選手として強く要求してきた現役時代を終え、10年が経過し
小倉隆史の中でどんなfootballが理想なのであろうか。

選手時代、小倉の頭の中に描いていたfootballはおそらく充分に満たされることはなかったであろう。
現役時代に悔いがあるという意味ではなく、何歩も常に先をみていたサッカー感を持った選手だったからこそ。
その全貌をチームで魅せてくれることになるのかもしれないと、注目せずにはいられない。


年齢もまだ若く、テレビに出演しタレント性強くといった面だけが先行してしまっているかもしれないが
巨大クラブ名古屋グランパスが先行きなく唐突にGM補佐にしたわけでも、監督へと指名したわけでもないであろう。

小倉隆史が持つfootballが どう伝えられチームとなるのか。

あの日、サッカー選手としての生命を絶たれるかもしれないほどの大怪我を負った小倉。
2年半という苦しい時間を越え、自分の思い描くサッカーを充分に表現できない葛藤ともおそらく戦ったことであろう。

それでも、ピッチに立ち続けた。
たくさんの選手たちに要求し続けた。
トリッキーという言葉を生んだ選手といって良いほどに、予測のつかない動きで、ボールを蹴り続けた。

小倉隆史が、監督としてチームを率いる日。

小倉隆史のサッカーキャリアは第2章を迎え、今度こそは日本サッカーをけん引する存在になるかもしれない。
レフティモンスターは「あの怪我があったから」、今が在る。

愛するクラブだからこそ。
名古屋グランパスで監督として立つ、小倉隆史に注目したい―。

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