【浦和レッズ】 阿部勇樹 「あの日、あの時。」 叩きつけた紅き紋章 【J1】
2015/07/27 22:52配信
カテゴリ:コラム
史上はじめての無敗ステージ優勝を成し遂げた浦和レッズ。
個性派集団でありながら、チームとしてのまとまりは固く厚く、深い。
プレーでもそして人間としても個が強い浦和レッズで、チームのまとめ役となっているのが、キャプテン阿部勇樹だ。
ステージ優勝を決めた後、チームメイトたちと喜びを表現する前に
阿部は仲間たちと組む円の中心で叫んだ。
ここから始まるんだ、俺たちは!
頼りがいのある背中は選手たち、そしてサポーターからも信頼され、ピッチではチームのバランスを取り試合の舵を取る。
ベテランとなったその姿からはすべてを知りつくしているような安定さが伝わり、安心してみていられる。
そんな選手となった。
しかし、阿部勇樹は昔から今の姿があったわけではない。
若き時の日々が今の阿部勇樹のキャプテンシーに込められている。
あの日、あの時―。
●キャプテンマークを叩きつけた、あの日
2004年。天皇杯。
この時、阿部勇樹はジェフ千葉でキャプテンマークを巻いていた。
当時23歳の阿部勇樹はアテネ五輪でもキャプテンマークを巻いたわけではなかったものの、狭間の世代と言われたチームをけん引した一人であった。
思い描いた結果を出すことができず、世界を前に分厚い壁に当たり、悔しさと自分の未熟さを感じていた時だった。
阿部勇樹にキャプテンマークが託されたのは22歳の時のこと。
若武者にキャプテンマークを託したのはイビチャ・オシム監督だった。
オシム監督就任2年目。
この年2ステージ制だったが、総合勝ち点でジェフ千葉は4位という結果となり、Jリーグがはじまって以来チーム最高順位でリーグを終えていた。
しかし、天皇杯に挑んだジェフ千葉はリーグシーズンで戦い抜いた選手たちが負傷し離脱が続出。
スタメン選手6人を欠き、挑んだ天皇杯となった。
相手は当時J2で最下位のコンサドーレ札幌。
J1から降格しリーグでも結果が振るわず、最下位というチーム史上最悪の結果を出した直後の天皇杯だった。
北海道室蘭入江競技場で行われた天皇杯3回戦。
阿部勇樹は当時いつもこだわりで付けていた紅きキャプテンマークを腕に、ピッチへと立った。
試合の主導権はジェフが握っていた。
再三、コンサドーレゴールに迫るものの均衡を割ることができない。
阿部勇樹も得意のFKや前線の選手へのフィードで得点機を演出するものの、ゴールはならず延長へと突入する。
しかし―。
待っていたのは悪夢だった。
室蘭入江競技場が大観衆で包まれ、まるで優勝したかのような盛り上がりで札幌の選手たちを讃える。
J2最下位でシーズンを終えたチームにとって、J1を総合4位でフィニッシュしたチームに勝ったことは大きな大きな1勝だったのだ。
延長となったことで、照明施設のない室蘭入江競技場はうす暗くなっていたが、目の前の偉業を讃えるサポーターの声があたりを照らすような感覚さえ覚えた。
千葉から駆けつけていたサポーターの数は多くはなかったものの、数ではなく気持ちで力強く声を枯らし続けてた応援。
そのサポーターの前に向かったジェフの選手たちはうなだれていたが
阿部勇樹はサポーターの前へと行く前に、キャプテンマークを外し、地面へと力いっぱい投げつけた。
その瞬間、サポーターから怒声が飛ぶ。
阿部勇樹は腰に手を当て、軽く頭を下げるとイライラおさまらぬまま控室へと下がった。
阿部の行為を目の当たりにしたサポーターは、チームに強く抗議した。
確かに俺たちはこんな試合を見に千葉から来たわけじゃない。でもどんなチームでも俺たちはジェフと戦う。
だけど、キャプテンマークを投げつけた阿部を俺たちは許すわけにはいかない。俺たちの前でキャプテンマークを投げ捨てる姿を観て、俺たちはなにを信じて帰ればいいんだ!?
涙を流しながらチーム関係者に訴えるサポーター。
阿部を出せ―。
歓喜の大声援で選手たちを讃える声が鳴りやまない札幌サポーターを背後に、千葉のサポーターは涙を流し、阿部を出せと訴えていた。
競技トラックには紅き紋章が寂しく転がっていた。
負けたことよりも、大きな意味を持ったキャプテンマークを叩きつける行為はサポーターにとって大きな痛みとなった。
通常ならばホームチームよりも前にアウェイチームが会場を後にすることが多いが、その試合は札幌が奇跡を起こした試合となりサポーターが選手たちを讃えようとスタジアムの前にバス待ちをしているサポーターが多く残っていたため、札幌のバスが先に出ることに。
長い時間足止めとなったジェフ千葉の選手たちは、誰も言葉を発さずただ黙っていた。
阿部勇樹は自分への怒りを消化しきれず、拳を強く握り目を潤ませ、ただただピッチを眺めていた。
●悔し涙と歓喜の涙の経験のあの時
普段から温厚ながら若者としてのキャラクターも持ち合わせた性格だった 阿部勇樹。
アテネ五輪最終予選前に、右足小指を骨折し、最終予選に間に合うかという時間との戦いを経験した。
度重なる怪我によってこの時点で10度もの代表辞退を経験し、大きな大会を逃し続けてきただけにアテネ行の切符を掴む予選は阿部にとって絶対に出たい試合だった。
この時、阿部の足にはチタンが埋め込まれ早期回復を視野にリハビリを進めた。
阿部勇樹なくして五輪代表は戦えるのかというほどに、チームの中心核として戦ってきた阿部勇樹にとって試練の場となった。
和製ベッカムと評されたその姿は今となってはどこが狭間だったのかというほどだが、狭間の世代の光のひとつとして注目され、そのキックの精度の高さとバラエティ豊かなサッカー脳は絶対的な戦力だった。
アジア最終予選日本ラウンド。
最終決戦となった日本ラウンドでギリギリの招集となった阿部勇樹は、初戦バーレーン戦でベンチスタートとなった。
復帰後まもない状況で、どの場面で使われるかと注目されたが、試合がはじまってすぐにアクシデントが起きる。
センターバックで出場していた闘莉王が負傷したのだ。
そこで交代として入ったのが若武者・阿部勇樹。センターバックの位置にそのまま入り、五輪代表に阿部勇樹が戻った。
チームを最終ラインから引っ張ったが、その日バーレーンに敗戦。
後にはもう引けない状況となった時が、阿部勇樹の強さが存分に発揮される時なのだ。
その後のレバノン戦では聖地国立に場所を変え、得意のFKを自ら決めるなど活躍し勝利を掴むと、最終日にはすべてのゴールで起点となり輝く右足を魅せる試合となり、念願のアテネ行きの切符を手にした。
その時、歓喜の風景を滲ませた涙。
違それとは違う涙が、2004年天皇杯敗戦のあの時には あった。
リーグが終わったからといって、4位という結果があったからといって
それに満足していたわけではなかった。
23歳の若きキャプテンは自らの小ささに悔しさを覚えていた。
自分にキャプテンマークは似合わない。未熟な自分を責めるようにそんな想いであの時、キャプテンマークを叩きつけたのかもしれない。
ジェフ千葉で育ち、ジェフ千葉を大きくしたいと誰よりも気持ちが大きかったからこそ、敗戦が受け入れられなかった。
天皇杯を獲りたいと本気で思っていたのだ。
その年に去ることが決まっていた選手たちともっと長く戦いたかった。そんな想いも交差していたのかもしれない。
悔しさ残るピッチを見つめ、その時生まれた悔しさを忘れまいと噛みしめているように見えた。
●浦和レッズの一員となり、浦和愛に溢れる今
2007年。
浦和レッズへと移籍した阿部勇樹。
スター軍団浦和レッズでは簡単に、阿部勇樹を受け入れてはくれなかった。
阿部の名を呼ぶコールも簡単にはしてくれなかった。
得意のFKも浦和レッズでは蹴れる選手も多く、蹴る機会をすぐには与えてはくれなかった。
元々、自己主張が強いタイプではない。
俺が、俺がというスタイルではない阿部が浦和に移籍し、どこか萎縮しているようにも映った。
浦和レッズで自己主張ができないと厳しい場面もある。全員が自己主張が強いとバランスが取れないが、それでも阿部の遠慮はサポーターにも見抜かれていたことであろう。
真のレッズの選手になるまで、その姿を貪欲さにまみれて見せないことには、認めてはもらえない。
ジェフの頃は阿部が引っ張る立場にいたが、浦和では日本代表クラスの選手がゴロゴロといて
自身も日本代表選手だったが、それでもどこか先頭に立つのは…といった消極的な場面がみられた。
しかし、その後試合を重ねるにつれ、阿部勇樹らしさが見え始めるとFKを蹴る場面も多くなり、直接ゴールを決めることも。
次第に浦和レッズの阿部となってきた阿部勇樹には大きなコールが送られるようになり、ジェフ千葉のイメージが強かった阿部も浦和レッズの一員として迎えられた。
逆境に強く、チームの苦しい時に走れる、そして踏ん張れる選手。
その良き姿が周囲にも影響を与える。
ガツガツタイプではないが、その柔らかさがチームメイトを安心させ、言葉のひとつひとつに説得力を感じることができる。
良いプレーには笑顔で讃え、要求には厳しいながらも適格に言葉を選び発する。
阿部勇樹の選手としての在り方に、自然とついていくことができる。
ジェフでも、アテネ五輪代表でも、キャプテンマークを巻いた阿部勇樹にはそんな人間性あふれる選手としての そして人間としての魅力があった。
自然と浦和レッズでもいつの日からか発揮され、いつしかキャプテンマークを巻く存在へと成った。
今年。
リーグ開幕前にACLにて公式戦3連敗を喫した浦和レッズ。
昨季の優勝を目前に侵してしまった失速の悪夢もあり、今季こそはと挑んだサポーターは
その結果にいらだちをぶつけた。
その声にキャプテンはサポーターの目の前まで歩み、人差し指を突き上げ勝利を誓った。
次は絶対に勝つから!まずはひとつ勝とう!
その目には涙が滲んでいた。
サポーターからの声がストレートに響いたからこその 悔しさと申し訳なさ。
室蘭であの日あの時感じたものに近いものがあったのかもしれない。
温厚で冷静で…と表現されることが多い阿部だが、そんなことはない。
試合中はアドレナリンが大放出され、誰よりも熱く戦い、勝利に向けて自分のすべてを吐き出している。
負けず嫌いな一面を持ち、どんな試合の1試合であっても全身全霊で向き合うことにこだわりを持っている。
浦和レッズの阿部勇樹は9シーズン目を迎えた。
ジェフ千葉、海外挑戦したレスター、そして日本代表でW杯も経験した。
33歳を迎えベテランと呼ばれる選手となった阿部勇樹だが、衰えることはまだない。
まだまだ心臓部としてチームの中心に立って、紋章を腕に巻き、戦い続けている。
阿部勇樹は夢を持ち、タイトルを獲るために常に強く在ることが求められる浦和レッズという大きな門をくぐった。
それから途中レスターへの挑戦もあったものの今季で8シーズン目。
阿部勇樹はまだタイトルを獲ったことがない。
リーグでもナビスコ杯でも天皇杯でも 浦和レッズでタイトルを獲得したことがないのだ。
昨年、どれだけタイトルというものが難しく簡単ではないかを痛感したからこそ
今年は逃すわけにはいかない。
浦和レッズのすべてを背負い、その重みを感じながら戦っているはずだ。
あの日、あの時。
その経験が今、どんな形で身になっているであろうか。
千葉を愛した阿部も本物だったからこそ、今の浦和を愛する阿部がいる。
阿部勇樹。
浦和レッズのキャプテンであり、浦和レッズに絶対に必要な 素晴らしい選手である―。