【ガンバ大阪】 遠藤保仁 羽ばたく鳥が魅せる魔法 【前編】
2015/02/19 11:58配信
カテゴリ:コラム
昨年のJリーグはガンバ大阪初の3冠という 気づいた時にはガンバ大阪一色の一年となったシーズンだった。
シーズンがはじまった当初、ガンバ大阪の調子は良い状態とはいえなかったが、W杯による中断が明けると、ガンバ大阪は一気に階段を駆け上った。
それと同時にガンバ大阪でプレーする選手たちが、Jリーグの主役へと昇り出た。
ゴールを量産し存在感を示す宇佐美を筆頭に阿部や大森、パトリックといった選手たちが輝きを増した。
その輝きを最大に光らせたのは、その原石たちを静かに磨くように生かした人物がいたからだった。
ガンバ大阪が3冠を獲った上で欠かせない人物。
昨年のJリーグで初めてMVPを獲得。
初めてと聞くと意外と感じてしまうほどに、Jリーグの そして日本サッカーの象徴として君臨する
遠藤保仁。
日本サッカーを語る上で欠かせない選手であり、今の日本サッカーを大きく動かした偉大なる選手である。
今年35歳を迎えた。
サッカーの世界ではもうベテランという年齢となったが、まだまだ譲る気はない。
そしてまだ誰も、その領域には達していない。
日本人サッカー選手として一番世界と戦ってきた男は
今年もまだまだ走り続ける。
●天才という大きな枠ではなく「遠藤」という存在
天才。
遠藤保仁を語る上で天才という言葉を使う人たちがたくさん存在する。
サッカー界においても天才的を感じさせる選手はたくさんいるが、遠藤から感じる「天才」はまたちょっと違う。
遠藤は天才という言葉の意味において
努力をしなくても誰も見たことがないようなプレーが出来て、別次元のレベルでできることの人
という定義を持つ。
それに自身は該当しないという。
遠藤はプロになった当初から大きく騒がれ中心にいた選手だったわけではない。
遠藤保仁には大きな存在である兄がいた。
高校選手権から注目され、Jリーグ一番の盛り上がりであった開幕当初時期に開催された、アトランタ五輪代表で10番を付けた兄・遠藤彰弘。
大きな背中となった兄の存在。
注目される兄の弟と表現される日々。兄が所属していた横浜マリノスと同じ街横浜にある横浜フリューゲルスに入団した。
ライバル関係にあるふたつのチームに分かれた兄と弟。
弟として表現されることの多かった遠藤保仁も高校では多くの大舞台に立ち、所属クラブでは開幕デビューを飾った。
ルーキーとして順調に出場を重ねたものの、横浜フリューゲルス消滅という事態となり、兄がいる横浜マリノスへと吸収される選手たちも多くいたものの、遠藤保仁は京都パープルサンガへと移籍。
主力として活躍するもののチームはJ2に降格し、その後、ガンバ大阪へと移籍することとなる。
この時にはもう弟としての表現ではなく、遠藤保仁という一人の選手としての地位と「ポジション」を日本サッカーに確立した。
遠藤は黄金世代と呼ばれるワールドユース準優勝世代の選手だ。
小野伸二や稲本潤一、中田浩二、小笠原満男、本山雅志など数々の名プレーヤーが揃い世界に一番日本サッカーが近づいた世代の代表的な選手だった。
しかし、遠藤はその中で常に輝いていたわけではない。
その世代が多く選出され、中心となったシドニー五輪では、ベンチを温めることが多かった。
22歳の時、日韓W杯が終わったタイミンブで日本代表に初選出された。
ガンバ大阪の中心選手として、いなくてはならない存在としてその頃にはもう定着していた。
日本代表ではじめての得点を挙げたのは、日本のサッカーの聖地・国立競技場だった。
ボランチというポジションながら二けた得点を記録するなど、活躍は目立ち、Jリーグ優勝・ACL優勝・天皇杯優勝など数々のタイトルを手にした。
ガンバ大阪というクラブが大きくなるとき、そこには遠藤保仁が存在し、動かしてきた。
さまざまな場面でベンチに座った経験を重ねた時期もあったことで、試合に出たいという思いもさまざまな形で経験した。
メディアは簡単に天才という呼称を付けたがるが、ベンチに座る日々が続き悔しい想いを重ね、その悔しさのバネから生まれる努力を積み重ねた遠藤は「天才」という言葉には 遠藤自身の定義からすると当てはまらないのであろう。
プロ選手として試合に出場しつづけ、黄金世代の一員として世界との戦いも積み重ねた。
しかし、国際試合で海外にいっても試合に出られないということも多く経験した。
日本代表ではW杯代表に選出されながらも、フィールドプレーヤーとしてただ一人出場することができなかったドイツW杯は とにかく悔しい思い出しかない。
日本代表に選ばれても、W杯の地にいっても、試合には出られなかった。
それを経験した遠藤は 日本代表で一番のプレーヤーになることを目標に定めた。
遠藤保仁はそのひょうひょうとした姿から、細かいことは気にしていないと思われることも多いが、代表キャップに関してのこだわりは大きい。
日本代表で一番の選手になると定めた目標には覚悟が込められており、代表キャップ数の記録を残す数々の偉大な先輩たちの記録に追いつこうとその数字を目標にひとつひとつ重ねてきた。
そしてついに遠藤は、日本代表としてピッチに立った数字の記録を塗り替え、今もその数を重ねている。
日本代表として一番試合に出場した選手となったのだ
22歳で日本代表に選出された遠藤保仁は 今年35歳になった。
積み重ねた代表キャップ数は現在152となっている。
●経験はすべてガンバ大阪を強くする
2014年。
遠藤保仁、3回目のW杯は自身の日本代表のキャリア、そして日本代表というチーム作りの中でも一番自信を持って挑んだW杯だった。
笑われた。
無理だと言われた。
しかし、夢としてではなく現実的に目指した目標は優勝という頂点だった。
冗談でも夢物語でもなんでもない。
チームの心臓部が語る誰よりも「リアル」に定めた目標だった。
…結果は惨敗。
W杯のピッチには立ったものの、チームの中心と言われ続けた遠藤は、ベンチで試合を観るということも。
久しぶりに座ってみる ボールを動かす役目ではない位置での日本代表。
国際大会でピッチの外から観る日本代表は本当に久しぶりだった。
もっと自分ならこうするのに
もっと自分ならやれるのに
そんな想いも抱いたかもしれない。
たくさんの時間を共有し、信頼してる仲間たちだが、それでも自分が試合に出たいのは誰だって同じだ。
ベストの状態だったと遠藤はいう。
しかし2014シーズンに入ってから遠藤の身体は悲鳴をあげていた。
全身のあちこちに痛みが出ていた。
膝、腰、足首…大切なW杯が控えていたが、それでも遠藤はガンバ大阪で試合に出続けた。
痛いということを出すことは好きではない。
遠藤はクラブでそして日本代表で1年ずっと試合に出場し続けながら、休みのないシーズンを過ごす。
それでも遠藤は前回のW杯からの4年間。ほぼ休みなしで長期離脱もなしで進んできた。
痛いことをスタッフや選手たちには隠さない。
しかし、メディアやサポーターの前では一切痛いことは見せない。
痛いことを「言い訳」のように感じてほしくないからだ。
痛いから仕方ない という「痛み」というフィルターを通してプレーを見てほしくはない。
ピッチに立った以上は100%以上でなくてはいけない。痛くても出場すると決めたのは自分。
だからこそ、怪我や痛みは言い訳にはならない。
出来る選手か 出来ない選手か
評価はその二つだけなのだ。
自分自身に厳しい遠藤はJ1であってもJ2であっても、やることは変わらなかった。
それはもちろん代表でも同じだ。
ガンバ大阪での自分
日本代表での自分
J1での自分
J2での自分
それは一切変わりはない。
J2に降格してしまったガンバ大阪を変えなくてはいけないと、遠藤がプレーの質を落とさなかったことに加え
自身のチームにだけでなく、J2のクラブを相手に自身の経験を伝えているようにも見えることがあった。
J2ではまだプレスの連携がうまくいっていないような場面もある。
プレスのかけかた、ボールの奪い方に連携が成り立たなかったり理解度が低いと感じられるチームも存在するが
それじゃダメなんだよ、こういうところにもボールは出てくるもんだから
そういうメッセージが込められたプレーを魅せることも多々見られた。
プレスの連動がなく、穴となっている部分にボールを通したと思えば、あえて穴となったところにボールを出す目線でのフェイクを交えて相手が慌ててそのスペースに移動しようとするとその足の間を通してみせた。
対戦した選手の中には、魔法みたいだったと表現した選手もいた。
そういう自身の持っている世界を魅せることで、相手の経験となり日本で一番世界を見ている選手から「世界」を感じることができる。
日本サッカー界に「伝える」プレーをし続けているのだ。
W杯前、全身に痛みを抱えた遠藤はパフォーマンスの質も下がっていた。
ピッチに立つ以上100%でなくてはならないと、厳しく課せていたのは誰よりも遠藤だった。
W杯も3度目を迎え、その準備の標準を合わせる方法もわかっている。
痛いところは試合に出続けながら治すという手段を取ってきた遠藤だったが、結果は悔しいものとなって現実として重くのしかかった。
世界の頂点を目指した戦いは あっという間に終わりを告げた。
足りなかったものを手に 遠藤はブラジルの戦いの場から Jリーグへと帰ってきた。
世界を一番知る男はブラジルでまた世界を痛感した。
2010年南アフリカで流した涙。
PKで敗戦となったベスト16という結果の後、もっと上を目指してきた遠藤保仁は静かに涙をふき取った。
あの時とは違う、悔しさ。
遠藤はもう終わってしまったのか。
そうみるサッカーファンも多くいた。
しかし。
そのまま終わるわけにはいかない。
まだ終わったなんて思っていない。
ピッチ上で試合を支配することに関して、日本で一番の能力を持っている。
遠藤保仁は日本代表だけにすべてを懸けているわけではない。
もうひとつ大きなものを背負っている。
それはガンバ大阪をもっと大きくすること―。
J2に降格した屈辱を一番味わい、悔しかったのは遠藤だったかもしれない。
ガンバ大阪にプライドを持ち、背負って、率いてきた責任感と、誇りを持っている。
だからこそ、日本代表としても結果を残す必要があった。
ガンバ大阪の遠藤として戦っていることも常に忘れていはいない。
日本代表で経験したこと。感じた悔しさ。
絶対的な存在だったはずの自身が絶対的存在ではなく終わったW杯。
そのすべてをガンバ大阪で―。
遠藤が感じた「世界」
それはガンバ大阪を強くする―。
(続)
このコメントはレッドカードで退場となりました。
さすがネットメディア。こんな気持ち悪い文章久しぶりに読みました。
名無しさん | 0 21 |2015/02/20|12:22