【サンフレッチェ広島】 5年契約で示した塩谷司の世界への挑戦と広島の覚悟 【日本代表】
2014/12/21 19:19配信
カテゴリ:コラム
5年契約。
Jリーグの選手契約としては大型の契約といって良いであろう。
サンフレッチェ広島と5年契約を結んだのは、塩谷司。
彼の名は昨年そして今年、日本サッカー界を駆け巡った。
一気に日本代表までを駆け上がった今、旬な名前のように聞こえるが彼が駆け上がるまでには注目されぬところで積み重ねてきた努力があったからこそ、だ。
現在、日本代表にも選出され、アジア杯という大舞台にはじめて日の丸をつけて挑む。
塩谷司はサンフレッチェ広島から世界へ戦いに行きたい。そう誓った。
●プロになると誓ったあの日。運命の出会いが変えた人生
塩谷の過去はそう煌びやかなものではない。高校サッカー界でも大学サッカー界でも全国に名を残すまでの活躍や栄光は手に入れてこなかった。
高校時代は高校選手権には出場したものの、それほど大きな注目は受けなかった。しかし、そこで目をつけ声をかけてくれた大学があった。
大学サッカー界でも名門である国士舘大学。塩谷は国士舘大学の誘いを受け淡路島から遠く東京へと上京した。
進学した国士舘大学。はじめて体感する関東の大学サッカー事情は塩谷が思っていたよりもずっと壁が高く、苦しんだ。
まだまだ年頃の男の子は、上には上がいるという厳しい現実を目の当たりにし、そこに正面からぶつかるのではなく逃げ道を探した。
その結果、サッカーに打ち込むのではなく、サッカー以外の時間を遊ぶ時間に費やした。
一度その道を覚えてしまうと、その時間を重ねたことに意味があるかという現実的なことは考えず、サッカーだけしかやってこなかった分さらに楽しく思えしまうものだ。
特に大学生ともなると、行動範囲も広がり地元から離れたことで近くに自分の行動を把握してくれる人もいない。自由になりすぎてしまった青年は理性という名のリミッターが効かなくなってしまう。
選手は遊びを覚え、サッカーと向き合う時間がどんどん減ってしまう。
そういった壁にぶつかってしまう選手は大学サッカー界では多い。高校時代に有名だった選手でもそういった道に甘えを求めて迷い込む選手は多い。
塩谷はそんな時期を過ごした。
しかし、その頃、塩谷の素質を見出し他の選手にはない光を感じていた人間がいた。
それがその当時、国士舘大学サッカー部の臨時コーチとして指導にあたっていた、現水戸ホーリーホック監督、柱谷哲司だった。
柱谷哲司といえば闘将の愛称で知られる日本サッカーのディフェンスシーンを引っ張ってきた元選手。
Jリーグバブルの象徴というべきスター軍団を率いたヴェルディ川崎時代、キャプテンとしてチームを統率し、日本代表としても活躍した。
得点能力も高いディフェンダーは、当時の守ることに必死だっただけの日本ディフェンスの中では特化した能力が引き立っていた。
その柱谷哲司が当時国士舘大学でレギュラーの選手でもない塩谷に注目を置き、絶対に上でやれる選手になると太鼓判を押した。
サッカーなんて楽しくない、どうせ俺なんて…とネガティブになりサッカーに全力を注ぐことから逃げていた塩谷に、柱谷氏はもっとちゃんとやれという願いを乗せた言葉をかけた。
それでもなかなか試合に出られない日々は、試合に出れる出れないでしか判断残量がなかった自分の評価に自身がなくなり、自分には能力がないのだとネガティブな日々を過ごし、向き合わない日々が続いた。
大学サッカー界では1年生からトップでスタメンとして試合に出場できる選手もいれば、4年生になっても試合には出場できない選手もいるなどさまざま。
しかも大学強豪校には部員が100名以上いることも多く、その中からの11名と考えると日々の競争が相当なことがわかる。
塩谷はAチームには属していたもののそれでも試合になかなか絡むことができず、時間が過ぎて行った。
最愛の家族との大学3年時に訪れてしまった、突然の別れ。
それは塩谷を大きく変えた出来事となった。
遠く淡路島で生活をする家族を自分が支えなくてはいけないと自覚が芽生えた。
サッカーだけをやってきた。自分にはサッカーしかないと考え直した大学4年時、塩谷は柱谷氏に決意を持って一生を懸けた願いを言葉にした。
プロになるためならなんでもする。どうすべきか教えてください。
その言葉と決意は柱谷氏にしっかりと届き、才能を見出していた闘将はそのすべてを塩谷に叩き込む決意をした。
走るという基本中の基本から、身体の使い方や当たり方、選手としての高い意識などプレーから精神面まですべてにおいて柱谷哲司という経験すべてを叩き込んだ。
それをきちんと受け止め、もともとあった才能と生まれ持った恵まれた身体に肉付けをしていった。
そして柱谷哲司氏が水戸ホーリーホックから監督要請を受ける。
そのタイミングは絶妙なタイミングだった。
塩谷司、国士舘大学卒業のタイミングだった。
俺と一緒に来るか。
そうその時、柱谷氏がプロの世界に塩谷を誘わなかったから。
今の塩谷司という選手は誕生していない。Jリーグに塩谷司という選手は存在していなかったことだろう。
塩谷を覚醒への道と導き、プロというまだ目指してもいなかった志をくれた柱谷氏。
日本を代表する闘将が、塩谷にプロの道を用意した。
どこのスカウトも目をつけていない素材だったが、柱谷氏は自信を持ち胸を張って、塩谷を連れて水戸ホーリーホックへと進んだ。
●受け継いだ闘将スピリッツが生んだ前へ進む成長へのカギ
長いシーズンオフの期間をサッカーが観たいという欲求不満が支配し、サッカーレス感覚となっているサッカーファンが迎える開幕戦。
どこのクラブにとっても、どのサッカーファンにとっても特別な日となる、その日。
塩谷司は大阪ヤンマースタジアム長居のピッチに立っていた。
相手はフォルラン獲得とJリーグ1の注目を集めていた柿谷曜一朗が在籍する、セレッソ大阪。
大注目となるチームと昨年チャンピオンであるサンフレッチェ広島の開幕戦は、3万人以上が入る注目の開幕戦となった。
その試合でゴール決め、試合を動かしたのはDFである塩谷司だった。
開幕戦という独自の空気、スタートは勝ちたいという想いが強くスタジアム全体に満ちた状態、リーグ覇者としての意地。
たくさんのものが自身を包み、自分の最大限以上のものを出した試合だった。
守ることはもちろん、広島の基盤となる3バックの一角でその存在感を出しつつ、攻撃にも参加する。
そして決めたゴールで試合が決まり勝利すると、嬉しさよりも先に、その90分の疲れが身体の限界ラインを越えていると告げていた。
嬉しい、喜びたい。でもその疲れは感じたほどがないほどに苦しい疲れだった。
吐きそう。そう何度も言葉にするほど体力を消耗し、苦しい歓びを得た。
その感じたことのない疲れを経験した塩谷は、そのスタートから一気にリーグが進むにつれてその名を大きくした。
リーグ序盤は塩谷がゴールを決める試合が多かった。
ディフェンダーにも関わらずフリーキックも蹴れる万能さ、そしてそれを決めることができるキックを持ち、塩谷司の名を一気に全国区にした。
水戸ホーリーホックで闘将の元で開花した塩谷は、サンフレッチェ広島でさらなる成長を遂げた。
水戸から広島に移籍を果たしたのも闘将のススメだった。闘将柱谷氏と広島の監督森保氏は共に日本代表として戦ったチームメイト。その他J1 2チームからオファーが届いていたが闘将の示しで広島に決めた。
移籍した当初はなかなか出場することができなかったものの、2013年には3バックの一角となり、リーグ連覇という大きなタイトルを手にするための役目を果たした。
広島サッカーを表現する上で重要な一人となった塩谷は、守備力と攻撃力に富んだ選手となり、日本代表へという声も多くなっていった。
大学時代まで無名だったその名は数年で一気に日本代表入りがささやかれるほどの存在となり、今年4月、最後の可能性と言われた国内組合宿に選ばれた。
最後の滑り込みでW杯へサプライズ選出されるのではないかという選手たちの名の中で、トップに名前が挙がるほどにその可能性に期待を込める人たちがたくさんいた。
結果的にW杯に行くことはできなかったものの、日本代表という場所をはじめて意識し目指したいと思えるほどに強い刺激を受けた。
日の丸を背負い戦うこと、日本を代表する選手たちの中で意識を高くもち、責任を背負いプレーすることへの誇らしさを感じた。
はじめて自分があの舞台に立っていたら―。
という想いで見ていただろうW杯。
次のW杯には代表としてあの場に立ちたい。
そう感じて見たのではないだろうか。
同じチームでプレーする青山が出場し躍動する姿をテレビ画面で観る刺激は、相当な刺激だったはずだ。
同じ練習をこなし、同じ試合をこなしている選手が、遠く異国でW杯というサッカー界最大の舞台に立ち、プレーしている。
そして得点に絡む活躍を魅せたのだ。
その刺激はその闘志に火をつけた。
高い意識の中で、キャンプのメニューをこなし、何度もキックを確認していた姿が印象的だった。
足元もあり、スピードがあり、素早い反応から相手の攻撃を防ぐことができるその能力をさらに高めるために日々トレーニングに打ち込んだ。
広島に加入したのが2012年8月。2年目を迎えた夏だったが、塩谷は広島になくてはならない存在となり、チームの顔の一人となるほどに大きくなった。
その後、足の負傷により欠場した試合もあったものの、シーズンを安定した存在感でプレーし、
アギーレJAPANに選出され、国内組合宿の「候補」という立場から、はじめて完全なる日本代表に選出された形となった。
そこには本田や香川、長谷部といったプロフェッショナルに溢れた選手たちが集結し、塩谷には強い強い刺激があったことだろう。
そして国際Aマッチデビューとなった試合では、見事に相手の速攻を封印し、1対1にも競り勝つなど守備能力の高さをみせ、さらには鋭いパスで決定機を作ったりと攻撃の面でも良さを魅せた。
アギーレ監督がパーフェクトと太鼓判をつけるほどに、塩谷はその存在感を存分に表現した。
ブラジルとの親善試合で、ネイマールを相手にした塩谷は、しばらくブラジル戦のことは思い出したくもないというほどに世界を突き付けられた。
ネイマールに取られた得点は4。大人と子供以上の差があり、同じ次元ではないというほどの違いを痛感した。
これが世界だ。そう示された塩谷はその壁にぶちあたった。
しかし、もうその壁から逃げたりはしない。避けることもしない。
あの選手たちを止めた時、きっと最高なやりがいと気持ちよさを感じることができる。
落ち込みながらも、感じたその差ははじめて感じる歓びとワクワクさに満ち溢れた。
燃え上がる闘志。
そこは闘将と呼ばれるあの人から自然と譲り受けたものがある。
塩谷の中には闘将スピリッツが存在するのだ。
普段の塩谷からはそういった面は受け止めにくい。闘志をむき出しにするのはむしろ苦手な方かもしれない。
しかし、内に秘めているその隠れた闘志は誰にも負けないほど、燃え上がる。
次のW杯には自分が出る。
あの場に立ちたい。
まだ無名だったあの頃を思うと考えられなかったような大きな目標を持てるようになったのも、塩谷の重ねた日々があったからだ。
塩谷司は日々、邁進しているのだ。
シーズン終了と共に、塩谷司の名はいろんなクラブの補強ポイントとして挙がりはじめた。
そういった噂のひとつひとつを自身が決着を告げるように、サンフレッチェ広島と5年契約を結んだ。
W杯まであと4年。
サンフレッチェ広島の選手としてW杯に出場する。
塩谷が定めたその目標は、契約という形で伝わった。
そしてサンフレッチェ広島もまた、5年という長い月日でなにがあるかわからない中。
シーズン中の不慮な負傷や不調な時期などのリスクもある中で、塩谷に示した期待という信頼。
両者の強い絆があるからこそ、実現した長期契約。
きっと年俸ももっと高い金額を提示されたことだろう。
5年もあれば日本代表で実績を重ね、もっと金額が吊り上がることだって考えられる。
しかし、5年の契約をした塩谷は、それ以上の魅力と忠誠心、そして恩返しを広島に誓ったのだ。
サンフレッチェ広島のその決意も、強く厚いものだ。
サンフレッチェ広島 塩谷司。
年末からアジア杯へと挑むキャンプで調整し、アジアを獲るため日本代表の一員としてついに国外で戦うこととなる。
塩谷の中で、次のW杯へのスタートはもうとっくに切っている。
またネイマールと戦える機会を得るためには、自身の成長が必要となり次元の違う世界まで上り詰めることが必要であると自分が一番よく理解している。
そのためにしっかりとサッカーと向き合い、自分自身と戦っていく。
大きな壁を歓迎し、正面からぶつかれるまでに塩谷は大きくなった。
サンフレッチェ広島から世界へ―。
それが塩谷司が得たいと願う、次の目標となった。
色々とおかしい。
柱谷は哲二だし、塩谷は淡路島ではなく徳島県の出身。
しっかりして下さい。
名無しさん | 0 0 |2015/09/22|14:39 返信
「柱谷哲二」です。「哲司」ではありません。
せと | 0 0 |2014/12/24|11:41 返信