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【辻勇人】鹿児島を動かした一人のフットボーラー 引退への花束を【鹿児島ユナイテッドFC】

2014/11/07 16:09配信

Tomoko Iimori

カテゴリ:コラム

 


現在JリーグのクラブはJ1とJ2、そして今季からはJ3という新たなカテゴリーも増えて52チーム存在する。
日本には47都道府県があるが、その数を超えたJリーグのチーム数。

しかし、まだ47すべての都道府県にJクラブは存在しているわけではない。

鹿児島県―。

Jクラブがとても多い印象のある九州地方において、Jのクラブが存在しない鹿児島県だが、高校サッカーの強豪校が存在するだけにサッカーとは無縁といった土地ではなく、むしろ鹿児島は多くの偉大なサッカー選手を生んだ土地である。
日本代表の心臓部とも呼ばれ続けた遠藤保仁、日本サッカー界、そして海外でも存在感を示した松井大輔、現在ドイツに渡った大迫勇也…
Jリーグでプレーする選手たちの中に鹿児島県出身の選手はたくさんいる。
どうして鹿児島にJリーグのクラブがないのかと逆に不思議に感じてしまうほどに、サッカーと密接した関係の土地といって良いだろう。


サッカーというスポーツが身近な鹿児島の人たちが、Jリーグのチームを必要としないわけがない―。
長年Jを目指してという目標の元で戦ってきたチームも存在したが、本格的に鹿児島のサッカー界が動き出したのはここ数年といって良いだろう。
夢から目標へと変わった激動の鹿児島サッカー界の近年は、本当にたくさんのことが起こっていた。

そしてようやく掴んだJへの一歩。
ついにJFLへと駒を進めた鹿児島の未来を乗せたチームは、快進撃を魅せた。

鹿児島がついにJを本格的に夢ではなく現実的に目標として狙いを定め、しっかりと見据えて、手を伸ばせる位置にまで今、きている。
その激動の中、鹿児島サッカーのために尽くした選手が引退を決めた―。


全国的には無名だろう。
プロ契約はしていても、Jの選手でいたことは一度もない。
ただ、鹿児島のサッカーを変えた一人であり、たくさんの新しいことを取り入れ何度も高い壁を乗り越え、そして厳しい決断もしてきた。
一人のフットボーラーをご紹介したい。

こういった選手がいるからこそ、footballは動くのだと サッカーを好きだと言葉にする人々に伝えたいと思う―。


彼の名は 辻 勇人。

鹿児島ユナイテッドFC所属の選手であり、ポジションはFW。
鹿児島にこだわり続け、プレーをしたフットボーラーだ。

 

●飛び抜けた選手ではなかった学生時代

鹿児島県南さつま市。
鹿児島の中でも小さな市に生まれた彼は、サッカーをはじめた頃、仲間たちや幼馴染と共にボールを蹴る。
特別飛び抜けていたわけではなかった。いつでも追いかける側の人間で、それを掴むために努力を自然と取り入れるようになる。
一緒にボールを蹴った幼馴染は、大迫勇也。
サッカーに夢中になるのに時間はかからなかった。

中学に入るとサッカー部は人数が少ないこともあり、まともに練習できないこともあった。
試合もできない、練習も人数が足りない。
鹿児島県はサッカー人口は多い土地であるものの人口の少ない土地ということもあったからか恵まれた環境にはなかった。
それでもサッカーがしたかった。自分を高めたかった。
地元では鹿児島実業や鹿児島城西を中心に高校サッカーで毎年英雄になる選手がいた。
お正月にテレビでみるその光景は身近でありながら、どこか遠かった。

でもその世界は決して目指せない場所ではないはずだ。
自分はうまくはないことはわかっている。それでも自分を高めることはできるはずだとサッカーノートを書く習慣が付いた。

サッカーノートを書いてきた選手はプロの選手たちにも多い。
自分を知ることで、自分を振り返り、課題を見つけ、克服する努力を重ねることができる。
毎日のサッカーノートを書くことが自分を高める材料となった。

選手が少ない状況を経験しながらも、サッカーで高校を選び、鹿児島県内強豪のひとつである神村学園に進んだ。
強豪といっても鹿児島実業や鹿児島城西に比べるとまだまだの時代であり、高校サッカー選手権で全国に進んだこともまだ経験のない時だった。
女子サッカーは全国的にとても有名で、男子よりも女子サッカーの生徒たちが有名だった。

その中でも努力の日々は続いた。
サッカーがしたい、もっとうまくなりたい。
貪欲に自分と向き合い、試合に出られるように必死に追いかけ続けた。

高校卒業後、KFCフェローズという鹿児島県社会人1部のチームに加入した。
働きながら週に1回の試合と練習に身を置いた。
楽しくサッカーがしたかった。はじめる時はそう思っていた。

●全力で上を目指す場所へ

戦っていくうちにレベルの高いところでサッカーに打ち込みたくなった。
部活では毎日サッカーができることは当たり前で、全力で常に打ち込んできたが、大人になるということはどこかで道が絶たれ全力で戦うといっても仕事や生活がある以上、当たり前ではなくなってしまう。
それを頭で そんなことない!という想いと、仕方ないという想いとが同居した。
Jリーグとかそういったものではなく、ただただサッカーがしたかった。
もっと自分を高められる自信もあった。
だからこそ、全力でなにかを追うところに身を置きたかった。

そこで鹿児島で当時社会人としては圧倒的に名高い 九州リーグ所属のヴォルカ鹿児島へと加入する。

ヴォルカ鹿児島はかなり速い段階からJを目指すと言葉にしていたものの、実際にはさまざまな理由で難しくなかなか九州リーグより先には進めない状況が続いていた。
JFLをまずは目指すといっても当時の九州は、Jを目指し本気で段階を踏んでいたチームがゴロゴロといた。
ロアッソ熊本(当時はロッソ熊本)、長崎Vファーレン、ギラヴァンツ北九州(当時ニューウェーブ北九州)…九州戦国時代と化していたのだ。
その中でなかなか勝ち上がることができず、ヴォルカ鹿児島の持つ予算やスポンサーなども縮小傾向にあった。
それでも鹿児島に新しいステップを!新しい鹿児島のサッカーを!と本気で目指し、取り組んだ。

自宅から1時間半もかかる練習場まで通った。
車の走行距離は信じられないぐらいに積み重なった。
同じ県内とはいえ、仕事が終わってからその時間を重ね、疲れた身体で向かうのは過酷だった。
それでも自分の選んだ道だから、全うし続けた。

練習のない日は決まって原点を忘れることのないよう、中学の時に毎日駆け上がった坂を走りぬけた。
練習を終えると練習着を自分で洗い、それを干して明日の練習着を畳み、用意して一日が終わる。
寝るのは深夜2時。そして次の日は朝から当然仕事が待っている。

プロとして選手をやっていたわけではない。選手としてどれだけ活躍してもお金は発生しない。
チームの選手たちは仕事を皆抱えているため。練習に人数が全然揃わないこともあった。
それでも練習を休まないよう、できるだけ通い続けた。

いつしか辻勇人はヴォルカ鹿児島のエースと呼ばれるような選手になっていた。
ゴールを量産し、たくさんの人に応援される立場になっていた。

練習に来ている選手たちよりも練習見学に来てくれるサポーターが多かった日もある。
自分は応援される立場の選手になったからこそ、抜けないと自分に厳しく日々戦った。

鹿児島にキャンプに来るJのクラブと練習試合をしたりと経験を重ねることもできた。

活躍をみて、県外のJFLのクラブからオファーが届くこともあった。
しかし、それでも自分は鹿児島でサッカーがしたいと鹿児島という土地にこだわり続けた。
鹿児島でサッカーをしてきたことが当たり前だったが、鹿児島でサッカーができるということは幸せなことだと知った。
それはサッカーができる環境が当たり前ではないと知ったからだった。


●難しかった決断…それは鹿児島のために

ヴォルカ鹿児島に突如ライバルが現れた。
鹿児島にJリーグを としながらもなかなかヴォルカが結果を出せない状態が続いていたためか、新しいチームが発足しJを目指すと目標を掲げた。
FC KAGOSHIMA。
ヴォルカにとってはライバルとなるチームだった。

その時、彼の中には葛藤があった。
九州リーグで2位となり地域決勝への出場権を得られず、全社で戦ったがそれも敗戦。
JFLへの夢がまた絶たれてしまった時、その結果云々ではなく、「ヴォルカ鹿児島の自分」以外の可能性を考え始めていた。

その話を聞きつけた関係者から、たくさんの話が舞い込んだ。
JFLの複数クラブからの打診も含め、たくさんのありがたい話が舞い込んだ。
その中にFC KAGOSHIMAからの話があった。

ヴォルカ鹿児島からFC KAGOSHIMAに移籍するということは、裏切りと取る人が多いだろう。
それほどに敏感になる相手であり、タブーという暗黙の了解があった。
しかし、話を聞いた時、鹿児島に光るサッカーの未来を感じ、魅力を感じた。
全力でここなら鹿児島のためにサッカーができる、そう感じた。

自分がFC KAGOSHIMAに行くことで余計因縁が深まるかもしれない。
それでも自分が橋渡しになることもできるかもしれない。共に向上していける関係になれたらいい。

そんな願いと、長年上を目指すといいながらもなかなか周囲の状況と経済力に押されなんとなく仕方ないという雰囲気が流れてしまっている鹿児島に、ライバルが現れることでお互いに高め合うことができるならという想い。
それが彼を動かした。

自分は嫌われてもよかった。応援してくれた人たちには感謝の気持ちしかない。
だからこそ鹿児島でもう1ステップ、そしてその先のステップ上のサッカーを観てもらいたい―。

そんな想いから、タブーとされる移籍を決めた。

FC KAGOSHIMAは注目を集め、たくさんのメディアに取り上げられた。
そしてメディア露出のためにたくさんの新しい試みをこなした。
それを時に、アイドル売りみたいと非難する人たちもいたが、まずは知ってもらうことが前提だった。
選手たちは練習だけでなく連日街に出てたくさんの店を渡り歩いた。
ポスターを貼ってくださいと頭を下げ、ほんっの小口で良いからとスポンサーを募った。
ローカルテレビへの出演、ラジオ番組への出演、お店めぐりにホームページ作成と更新、そしてさらに新しいことはできないか、地域密着するためになにかホームタウン活動ができないかと選手たちが案を持ち寄って話し合いもする。
朝から夜まで必死にチームのために走った。チームと鹿児島のため、たくさんの人にサッカーを知ってもらうため、たくさんの人にもっと上のサッカーが観たいと思ってほしいために奮闘した。
連日睡眠時間は少なかった。それでも手ごたえを感じることのできる日々は充実していた。
その中心にいたのは辻勇人だった。

彼は連日走り続けた。もちろんサッカーだって抜くことはできないし、FC KAGOSHIMAにはヴォルカ時代にはいなかったような経験豊富で強力なライバルも出現し、試合に出られないこともあった。
こだわり続けプライドを持ってやってきたFWから他のポジションへコンバートされたこともあった。
それを受け入れつつ、自分のものにしなくてはと必死に練習を重ねた。

そこで掴んだ天皇杯出場。
FC東京との対戦機会を得たFC KAGOSHIMAは鹿児島からなんと車で東京入りするという過酷さだった。
遠征費をたくさんのスポンサーやサポーターが出資してくれたものの、全国大会以外の東京までの遠征費は難しかった。

バスで東京遠征をしたFC KAGOSHIMAを待っていてくれたのは自分たちのサポーターだけでなく、温かく迎えてくれたFC東京サポーターだった。
全力で、Jリーグで戦うFC東京にぶつかったFC KAGOSHIMAにたくさんの歓声と拍手を送ってくれた。
結果は0-4だったもののFC東京と味スタで戦えたことはFC KAGOSHIMAの財産となった。

あの場所を目指すんだ―。

現実としての目標の地に、経験として立つことができたのはすごく大きなものだった。


その後、FC KAGOSHIMAの存在が生まれたことでヴォルカも当然抜かれてはならないと、強化を積み重ね鹿児島2強時代を経て、共に地域決勝で戦い、そして共に決勝ラウンドへと進出。
そして様々な変動や会合を繰り返し行いながら、時に悲しい別れや怒りをも感じるまでに大変な壁をぶつかりながらも、何度も噂されては立ち消えていた合併という形でJFLに昇格した。

その名は 鹿児島ユナイテッドFC―。

 

 

鹿児島でサッカーをやることに こだわった一人の選手が
ヴォルカ鹿児島でエースとなり
自分を悪者にしながらも
FC KAGOSHIMAという新たな可能性で新しい道を切り開き

ライバルにあったひとつのチームが合併した きっかけはたくさんあるがそのひとつとして 辻勇人という選手の存在も数えることができるだろう。

選手をしながら
ホームページを更新したり、お店を巡ってたくさんの人々に会い愛され、ホームゲームのイベント発案や運営、設営も行った。
サッカーを続けてきたことで出会った人の数は、きっと数えきれないものだろう。


幼馴染がW杯で活躍する姿を観て、兄のような目で見守った。
その頃なのだろうか。
引退という文字を頭に思い浮かべたのは―。

 

 

鹿児島にはJクラブは現在、存在しない。

しかし、近い未来ついに鹿児島にJのクラブとして存在することになるだろう。


鹿児島のサッカーの歴史において大きな大きな一歩となるその出来事を
創った一人の選手の力。


辻 勇人という努力の人がいた―。

 

こういう人間がいるからこそ、切り開く力のある人がいるからこそ
footballの可能性は拡がっていく。

新しいことをやるっていうのは言葉では簡単だが、実際に実現していくのは難しいものだ。
その先が大きければ大きいほどに。

鹿児島がJリーグを目指すと宣言してから11年。
実現までもう少し。

たくさんの人が同じ夢を持って現実にしようとしているのも。
日々たくさんの人に接し、お店を巡り、メディアに出演し、ビラを配った
そういった行動で伝えたものがあるからだ。

そしてプレーしたことで、そのプレーに魅力を感じたり、想いが生まれたりしたからだ。

footballは伝える力を持っている。

高校を卒業し、当たり前ではない環境でサッカーができるところに身を置いて10年。
たくさんの人に惜しまれた。


私も、その一人だ。


彼がいたこと、そして彼が「自分のために」や「サッカーのために」よりも 鹿児島のためにしてきたことを
伝えること
それが私ができる最大の彼の引退という節目への 花束になると思い執筆しました。


本当に、お疲れ様。
これからもきっとサッカー人生を歩むだろうから、期待しています。
選手ではない、次なる立場でのfootballを。

 

己に勝て―。

 

 

 

 

 


 

Good!!(97%) Bad!!(2%)

以前、サッカー教室で勇人コーチに指導していただきました

ちびママ  Good!!1 イエローカード0 2014/12/09|11:28 返信

辻選手への深い尊敬と愛情を感じる文章に、
ファンとしても鹿児島人としても感無量、グッときました。

今まで辻選手がチャレンジしてきた道は、
ある意味、辻選手でしか乗り越えられなかった長い道だったと思います。

彼の選手としてだけで無い一人の魅力ある人間力を

ぜひ!次に繋げてもらいたいと思います。

それが辻選手が全力で愛した鹿児島サッカーの歴史と文化と人を
大きく太く、そして分厚くしてくれるものだと信じています。

選手としての最終シーズン、寂しくもありますが
これからも辻さんの1ファンとしてずっと応援していきたいと思います。

GO!  Good!!3 イエローカード0 2014/11/08|06:02 返信

コメントありがとうございます。

想像を超えるたくさんの人々に読んでもらい、彼が本当に愛されていた選手だったのだなと実感しています。
鹿児島のサッカーという大きなものを動かした大きなチカラを持って、これからもきっと鹿児島のサッカーのために力を発揮してくれることと思います。

引退は寂しいですが、その姿を観てきた鹿児島の選手たちそして鹿児島の多くのサポーターのみなさんのこれからに期待しています。

読んでいただき、ありがとうございました!

Tomoko Iimori   Good!!0 イエローカード0 2014/11/11|23:42

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