【ジュビロ磐田】 数々の苦境を乗り越えサイドバックを制した、駒野友一という歴史 【日本代表】
2014/06/01 17:21配信
カテゴリ:コラム
人に会うのが怖かった。
人の視線が怖かった。
あの時。
自分が戦犯だと思った。
自分が決めていれば。
そう何度も何度も自分を責めた。
正確さが評価される自信を持ったその足で蹴ったボールは
ガンッッ…!
と残酷な音を立て、バーに弾かれたボールはゴールではない場所へ飛んで行った。
2010南アフリカW杯。
決勝トーナメント一回戦は120分間の死闘の結果、PK戦となり、日本はあと一歩のところで敗退となった。
PKを外したのは駒野だったが、選手たちもそしてサッカーファンも駒野を讃え、そして一緒に涙を流した。
駒野が泣き崩れる。それを選手たちが支える姿は、悲痛が伝わるとともに、ベスト8へと進めなかった悔しさで日本中が涙した。
あれから、4年。
またW杯が始まろうとしている―。
●駒野友一のターニングポイント
駒野友一はJリーグではナンバー1サイドバックであることは間違いないであろう。
彼は今年32歳を迎えたものの、持前のスタミナが衰えることもなく、瞬足も健在、そしてなんといってもクロスの精度はピカイチである。
深い位置からのクロスはもちろん、アーリークロスは気持ちが良いほどドンピシャで相手ディフェンス、そしてキーパーの嫌な場所へと配球される。
味方選手の特徴をよく理解しているクロスやパスを繰り広げる駒野は、サイドバックながらゲームをコントロールし、数々の演出を魅せる。
駒野は能力の高い、日本を代表する選手ながら、その存在は目立つタイプの選手ではない。
しかし、彼は日本サッカー界に置いて重要なポジションを今までたくさんこなし歴史の1ページを刻んできた選手だ。
駒野にはさまざまな壁があった。その中でも一番大きなポイントとなったのはアテネ五輪前の前十字靭帯断裂だったのではないかと考える。
アテネ五輪を目指していた五輪候補選手たちの中に駒野は主力選手としていつも選出されていた。
しかし、彼は五輪の一年前に前十字靭帯断裂という大きな怪我をしてしまう。
サッカー選手に多い怪我のひとつである十字靭帯の損傷や断裂。
大きな怪我であり、選手生命を左右してしまうような怪我の一つだ。
一昔前は十字靭帯の断裂を理由に現役を続けることが困難となり、引退した選手も多くいたものだ。
スポーツ医学の発展はここ数年でかなりの進化があったのではないかと考える。個人の程度や回復の差はあるものの十字靭帯を断裂した日から1年以内に復帰し、中には半年たらずで復帰するという選手もいる。
もちろんそれでも大きな怪我。十字靭帯の断裂は五輪を見据える駒野にとっては衝撃的な怪我だった。
本番まで1年近くの日数があった。
だから最初は焦りはなかったのだ。最初は。
前十字靭帯再建手術を受けた駒野を待っていたのは、まさかの手術による血栓症という不運な結果だった。
手術を受けたことがある人なら誰でも説明を受ける手術のリスク。
手術を受け、長時間同じ体勢でいることで血栓ができやすくなるため、さまざまな予防が行われるのだが、駒野の身体には不運にも血栓ができてしまい、エコノミー症候群を発症してしまった。
怪我以上に、命にかかわる重大な結果となってしまい、生死をはじめて考えるような重く恐怖感に襲われる日々を過ごした。
自分は本当に治るのだろうか、自分は本当にピッチに戻れるのだろうか。
そんな想いも出てしまうほどに駒野の精神は弱まっていった。
そんな時。
駒野が怪我をしてから全国規模で行われていた、駒野の復帰を願う千羽鶴プロジェクト。
駒野を応援する人々、そして当時在籍していたサンフレッチェ広島のサポーターだけではなく、五輪を目指すことを応援するサッカーファンや、十字靭帯という怪我で苦しんできた選手を応援してきた人たち、そして国内だけにとどまらず海外から日本サッカーを応援する人たちからも千羽鶴とたくさんのメッセージが届けられた。
サンフレッチェ広島の試合や賛同する広島市内のお店、駅、ホテルなどで駒野のことを知らなかった人たちでも、駒野の現状を伝えるポスターを見たり呼び込みを聞いてその場で折り紙を手に鶴を折った。
駒野の元に届けられた鶴の数は約5万羽の千羽鶴とメッセージ。
中には同じくアテネ五輪を目指す選手たちが折ったものもあり、駒ちゃん待ってるよといった選手たちからのメッセージも添えられた。
待っていてくれる人がいる。
知っていてくれる人がいる。
それは駒野に大きく響き、五輪に行くという目標ではなく「決意」を誓った。
復帰に9か月の歳月がかかってしまった。
それは選手としての復帰としては十分な期間だったかもしれないが、復帰とともにアテネ五輪に出る代表のレベルに持っていくことは容易ではなかった。
大きな怪我をしたあとは 必ず自分をベストの状態に持っていくことに時間がかかるものだ。
しかし、駒野は「駒野友一」としてアテネのピッチに立ち、怪我のせいで…なんてことを言われることなく、完全復活を果たした。
●アテネ経由ドイツ行き
五輪世代の監督であった山本昌邦監督が口にし続けた言葉はアテネ経由ドイツ行きという言葉だった。
駒野はアテネ経由で結果を残しつづけ、日本を代表するサイドバックへと成長、そしてドイツW杯を経験することとなる。
駒野は15歳の時に胸に誓った。
Jリーグクラブの下部組織、そして強豪高校からの誘いの中でサンフレッチェ広島を選んだ。
必ずプロになると決意した中学生は、サッカーがしたいからサッカーでメシを食いたいという基本的な夢とは別に、家族への愛のために誓った。
ユース入りする直前に父が亡くなった。
その結果3人の子供を母一人で育てていくことになった現実の中で、自分はサッカーをしていいのかと悩んだという。
しかし駒野は誓った。
必ず最短でプロになり、早く活躍して母を助けるのだと。
一家の大黒柱になることを たった15歳の少年が誓ったのだ。
その決意は他の中学生たちと比べても、大きく重いものだったであろう。
その決意通り、駒野は大きな怪我があったことを感じさせないほどに階段を上り続けた。
夢にまで見たW杯。
サッカー最高峰のその舞台は駒野にとってとても大きなものだった。
自分が直接失点に絡んでしまったことに大きなショックを覚え、世界の舞台での信じられない感じたこともない緊張感は五輪では感じられなかったもので圧倒された。
しっかりと準備したと思っていた身体が動かなくなり、スタミナがあると評されている駒野でさえ初戦で足がつってしまうという現実。
チームの雰囲気も悪く、若手の位置とされていた駒野はチームの中も当然どうすることもできずにドイツW杯はあっという間に終わってしまう。
でも、何もできなかった印象のW杯だったからこそ、次を本格的に目指した。
W杯が「どういうところか」わかったからだ。
その経験を経て、W杯にどんな準備をすべきか、そしてどう戦えばよいのかを得た。
次のW杯は若手ではなく経験者としてチームに貢献する。
駒野にはそう新たな目標を見据えた。
●サッカー人からの高い評価
アテネ五輪を率いた山本監督は、大けがを経た駒野であってもサイドバックは駒野しか考えられないと言った。
日本サッカーに大きな成長と刺激を与えたオシム監督が、日本で一番スピードがある選手、そして真のサイドバックと挙げたのが駒野だった。
広島を指揮したペドロヴィッチ(現浦和監督)のサッカーは駒野に味わったことのないサッカー観を与えた。
駒野は「こんなサッカーもあったんだ」と気づかされたと後で言葉を残している。
その日本サッカーにはないサッカー観の中で、ペドロヴィッチは駒野を使い成長させ、世界のサイドバックとして戦えると太鼓判を押した。
岡田監督は左右のサイドバックの控えとして駒野を選出したが、右サイドバックの内田が負傷した時、駒野ではなく今野を右に置き換えるという策に出た。
駒野はこの時、悔しさ…そして絶望感を味わったという。
自信もすべて失った。嘘だろ…という言葉が口から思わず出た。
しかし、南アフリカのピッチに立ったのは駒野だった。
駒野はすべての試合に出場し、チームの主力として十分な活躍を魅せた。
数多くの世界的エースを相手にサイドを果敢に駆け上がり、守った。マッチアップする選手たちのほとんどが駒野の運動量の多さ、そしてレベルの高さに驚きの声をあげたほどだ。
日本サッカーの歴史において、重要な働きをしてきた監督たちに評価をされ続けてきた駒野。
そしてその存在はもちろんザッケローニ監督の目にもとまる。
3バック、4バックもこなせるサイドバックであり、
クロスの正確性、スタミナの豊富さ、そして左右をこなせるユーリティーさ
セットプレーもこなせるキックを持ち、フリーキックも蹴れる。
駒野友一は日本サッカーが生んだ、それだけのことを一流にこなせるスーパーな選手なのだ。
●ブラジルW杯落選。そして…
2014ブラジルW杯に向かう23名の選手の名前に、駒野の名前はなかった。
バックアップメンバーとして駒野の名前が示された。
南アフリカで涙を流してから4年。
あの時のことはしばらく振り返ることができないほど、重く駒野にのしかかった。
当然忘れることはできない。
それでも駒野は再び、W杯を目指したいと目標を掲げ、ブラジルを目指していた。
あの残酷な音は忘れていない。今でも耳に残っている。
あの涙の冷たさも忘れていない。
泣き崩れそうな身体を支えてくれた仲間の腕も、自分以上に流してくれた涙も今でも胸に染みている。
だからこそ、ブラジルに行きたいと思った。
人のことがこわくなった。
人の視線がこわくなった。
でも近くにいてくれた家族や仲間、友達たちに支えられて自分がいることを知った。
応援してくれる人たちがいることも。
そう感じることで、苦境を何度も乗り越えてきた。
聞こえてくる声
感じることのできる絆
支えてくれる信頼
立ち上がらせてくれる期待
それが何度も駒野を奮い立たせてくれたのだ。
ブラジルW杯は4年間の集大成という表現をされることが多い。
チームを創り上げてきた4年間の集大成であることは間違いないが、忘れないでほしい。
4年前に選手たちが流したあの涙を。
選手たちが涙を流すことができたのは、そこに精一杯が込められていたから、そして手ごたえがあったから。悔しかったから。
悲しみや悔しみ、そして責任をすべて背負い込んだ仲間である駒野が感じる苦しさも、背負ったから。
南アフリカでのあの試合が、今に繋がっているはずだ。
W杯を戦ったからこそ、戦ったことがある選手にしかわからない戦い方があるだろう。
その経験をブラジルの地で生かすことができなくなってしまった駒野だが、32歳の彼はまだまだ日本最高峰のサイドバックを譲る気持ちはない。
所属するジュビロ磐田は現在J2に降格し、駒野はJ2で戦っている。
当然、チームを昇格させることが駒野に今与えられている使命であり、自分に課せる決意だ。
怪我をして、思わぬ病気になり、こんなに苦しい想いをするなんて…と思った。
南アフリカで人生で一番つらい経験をした。
なぜ自分にはこんなに厳しい現実が待っているのだろう…と感じた。
それでも駒野は立ち上がってきた。
駒野はサッカー選手としてピッチに立っている。
15歳の時。
プロのサッカー選手になる。
そう決意した少年は32歳になった。
五輪にも出場した。
W杯にも2度出場した。
でもまだ止まるつもりはない。
W杯メンバーとして代表入りした同じポジションである酒井高徳は、目標とする選手・理想とする選手に
駒野友一の名前を挙げる。
プロを目指すたくさんの子供たちや青年たち、そしてプロの選手たちからも「理想」として挙げられる選手となった。
南アフリカで駒野の一番近くで、駒野よりも涙を流しその苦しさを分け合った松井大輔が今季ジュビロ磐田に加入した。
アテネ五輪、そして代表で共に戦ってきた前田遼一、そして五輪には行けなかったものの若き時から世代別代表で一緒にやってきた藤ヶ谷陽介も加入し、狭間の世代と呼ばれていた同年代の選手たちがベテラン選手として同じクラブでプレーすることとなった。
駒野を支えてくれる人間が近くに多数いる。
ブラジルには行けないが、刺激し合える仲間が近くにいる。
若手だった自分たちがいつの間にか
若いやつらにはまだまだ負けられないという言葉を発する立場になった。
W杯中もJ2は止まらない。
だから、今日も駒野はボールを蹴るのだ。
自分だけがどうして…と思った数々の苦境は今、自分だけが経験できたという強さになった。
人よりも苦しんできたからこそ、駒野友一はまだまだ強さを失うことはない。
一筋の光のように、軌道を描く美しいクロスを上げる。
それは駒野友一らしさを象徴する姿だ。
その姿を是非、機会を作ってたくさんの人に見てもらいたいと願う。
駒野が出ていれば・・・
悔やまれます。
名無しさん | 0 0 |2014/06/19|22:57 返信
泣ける…/ _ ;
名無しさん | 1 0 |2014/06/06|00:32 返信
駒野、最高!頑張れ~
名無しさん | 0 0 |2015/01/11|11:50
読んでいただきありがとうございます!
Tomoko Iimori | 0 0 |2014/06/07|19:01