【日本代表】 川口能活・楢崎正剛がいない はじめてのW杯 【名古屋グランパス・FC岐阜】
2014/05/23 11:37配信
カテゴリ:コラム
二人が並んで笑顔で朝の街を散歩する。
たまたま出くわした日本代表の散歩隊と呼ばれる選手たちは、早朝の空気を身体いっぱいに感じながら歩いていた。
あの二人が談笑しながら同じ空気感で話すなんて。
そんな光景が、二人が共に過ごし積み重ねによってできたものなのなのだろうとくみ取れる。
「ライバル」。
日本サッカー界でライバルといえば誰を思い浮かべるだろうか。
日本サッカー史上で一番のライバル関係を続けている選手。
それは
川口能活
楢崎正剛
この二人ではないだろうか。
日本を代表するGK。
そして日本サッカー界を変えた、偉大なGKといっても過言ではない。
二人は共に歩み、共に成長してきた。
その二人がいないW杯が今、はじまろうとしている-。
●日本サッカー界に現れた二人のGK
ゴールキーパーは1名だけのポジションであることは誰もが知っていることだろう。
だからこそ、難しくその1人に選ばれることはとても大変なことだ。
日本中でサッカーをしているGKの中で、日本代表としてピッチに立てるのはたった1人なのだ。
超高校級。
そう先に言われたのは清水商業高校にいた川口能活だった。
清水商業高校は当時ではかなり珍しく本格的な外国人GKコーチを付けており、川口能活はとんでもない速さで成長を遂げた。
川口がキャプテンマークを巻いた3年生時は全日本ユースに国体、そして高校選手権と3冠を達成。
高校選手権が終わった時には甘いマスクだったこともあり、全国的な川口フィーバーとなったほどだった。
当時の日本代表不動のGKだった松永成立(現横浜FマリノスGKコーチ)にあこがれていた川口は多くのJクラブからの誘いも蹴って、マリノス入りを決意する。
その次の年。
圧倒的な優勝候補で、前年チャンピオンだった川口の母校である清水商を1回戦で倒した奈良育英にスポットが当たる。
そのゴールマウスを守っていたのが楢崎正剛だった。
前年の川口の存在感が残っていた選手権の中で、超高校級と川口と同じ表現をされたのが楢崎正剛だった。
そして川口のいるマリノスのホームタウンである横浜にて、もう1つ存在する横浜フリューゲルスに入団することになった。
1学年の違いはあるものの、選手権で注目され超高校級と評されたGKであり、同じ横浜をホームタウンとするクラブへの入団。
そして二人はアトランタ五輪を目指す代表候補となり、常に比べられる立場となった。
マリノスには松永が、フリューゲルスには森敦彦が、と当時Jリーグ人気の中でも人気のGKとして名高かったどちらの正GKも壁は高く、すぐに出場機会が現れるとは思われていなかった。
川口はサテライトで試合に出場していたがうまくいかずに何度もキレ、てチームの輪を乱してしまう場面も多々みられた。
楢崎正剛はベンチに入ることはできていたもののやはりベンチスタートであり、ついに日本にも天才GKがと騒がれたが、二人はプロのレベルになることに必死だった。
しかし、意外とプロでスタメンになる機会は早くやってきた。
川口は2年目にはスタメンを勝ち取り、楢崎は森の長期出場停止を受け、て入団した年の夏からスタメンとして出場することになる。
二人は同じ年にスタメンとなり、出場を重ね、同じ横浜でそして代表でプレーするライバルとなったのだった。
●1996アトランタ五輪
今でこそ、日本は五輪に出場するのは当たり前のような扱いだが、当時は30年間五輪から遠ざかっており、Jリーグが発足してはじめての五輪予選。
プロ化してからはじめてということもあり、30年ぶりの五輪出場に期待がかかっていた。
当時の五輪を目指すメンバーには
中田英寿、松田直樹、田中誠、城彰二、前園真聖、森岡隆三、伊東輝悦など将来の日本代表の中心となる選手たちが集っていた。
この選手たちにはひとつの節目があった。日本サッカーの新たな試みとして行われたトレセン制度の初めての結果となる選手たちだった。
日本サッカーが若い世代からの強化を掲げ、トレセンとして強化を行ってきた選手たちのはじめての結果としての場が、五輪予選となった。
その代表に選出されていたのが川口能活、そして楢崎正剛だった。
この頃で常に二人は比べられていた。
正ゴールキーパーに選ばれた川口、ベンチに第二GKとして座る楢崎。
30年ぶりに掴んだ五輪の切符はとても輝かしく、様々な想いの詰まったものになり、Jリーグブームに沸く日本全体の期待を背負って五輪代表はアトランタ五輪に挑んだ。
川口はあの「マイアミの奇跡」と呼ばれる記念すべき30年ぶりの五輪第一戦目。
相手は強豪ブラジルにて、ファインセーブを連発。
少ないチャンスから伊東テルが決勝弾を決めたことにより、なんとブラジルに日本が勝利するという歴史的快挙を達成。
予選リーグ突破には至らなかったものの、アトランタ五輪代表の戦い、そしてそのチームで世界の選手たちを止める川口の姿は日本中の人々の記憶に残った。
●1998フランスW杯
その後、クラブではもちろん、日本がはじめてW杯行きの切符をつかむために戦ったフランス予選。
日本が念願のW杯初出場をつかんだ「ジョホールバルの歓喜」
そのゴールマウスには川口能活がいた。
ベンチを温める楢崎正剛は悔しい想いをいつもしていた。
自分がゴールマウスに立つことをいつも想定していた。
しかし、それは川口にも脅威であり、自分が少しでもプレーの質が落ちてしまった時には、すぐに楢崎が起用されることもわかっていた。
その極度な緊張感があるからこそ、川口は危機感を持ってゴールマウスに立てた。
この試合に負けてしまったら、この試合で点を取られてしまったら。交代させられるかもしれない。
そんな危機感を持っていたのだ。
楢崎はベンチを温めるだけの選手にはなりたくなかった。
ベンチにいる悔しさ、試合に出られない悔しさを一番知っているのは自分だとわかっていた。
だからこそ、ベンチにいる選手たちを励まし、試合に出ている選手たちを気持ちよく送り出した。
その関係が日本代表全体のバランスとなって良い効果を出していた。
フランスW杯でゴールマウスに立ったのは 川口能活だった。
●2002日韓W杯
はじめての自国開催により、日本中が蒼く染まった2002W杯。
特別な想いは二人にも当然あった。
当時の監督であったトルシエ監督は調子の良い選手を起用するという手法をとっており、GKをその時その状況に応じて使った。
その中でも川口の出場機会が多かったものの、大会直前まで誰になるかわからない!とゲキを飛ばし続けた。
その結果、トルシエ監督が指名したのは楢崎正剛だった。
ベスト16という結果を残した日本代表。
この時川口は26歳。楢崎は1つ下だが誕生日を迎えていたため同じ26歳。
二人のGK人生はまだまだ途中だった。
川口はこの時ショックもあったが楢崎正剛を支え続けた。
ベスト16での敗退後、楢崎の隣で励ましていたのは川口の姿だった。
●2006ドイツW杯
ドイツW杯に向けて発信した新生日本代表ももちろんGKはこの二人が中心だった。
この頃からだろうか。二人が練習でも笑って声を掛け合うようになっていったのは。
それまではどうしても二人はライバルであり、周囲が気を使っていたこともあり、お互いがぎくしゃくする関係だった。
日本一のライバルは若さもあって、普段から意識し合う存在になっていた。
しかし、このジーコ体制になってからは二人の成長や、川口が海外挑戦し日本から離れたこともあり、どこか二人の間にあった空気の変化を感じられた。
そしてドイツW杯は川口がゴールマウスに立った。
楢崎は自分がベンチを温めた日々の中でベンチの選手がどうすべきかがわかっていたものの、チームの中に生まれてしまったスタメン組と控え組の不調和音を払拭することはできず、大きな特別な舞台ながら一体となって戦えなかったことを悔やんでいた。
全員でつかみとったはずのW杯ながら、全員で戦うことができなかった。
川口は初戦で短時間で3失点と結果としては思わしくなく、叩かれることも多かった。
ドイツW杯は3回目のW杯。
W杯だけでも12年に登る代表の歴史。
そして集大成となったのは南アフリカだった。
●2010南アフリカW杯
ドイツW杯以降、しばらく川口能活は代表から遠ざかっている。
その間、ゴールマウスを守ったのは楢崎だった。
楢崎はほとんどの試合に出場し、予選も楢崎で戦った。
しかし、本戦で岡田監督が使ったのは 川島永嗣だった。
楢崎は当時の心境を 本当はつらかった。ショックだったと言葉にしている。
しかし、それを感じさせないほどに楢崎は出場できなかった100試合の経験をもとに、そしてドイツW杯で生まれてしまった不調和音の失敗を胸に貢献できるだけのことをして、できる限りベンチを盛り上げた。
川口の選出はないと言われながら、サプライズという形で第3キーパーとして選出され、ベテランとしてチームの盛り上げ役を担った。
二人の偉大なゴールキーパーが川島永嗣のはじめての大きな舞台を支えたのだ。
●新たな道へ
南アフリカから帰った楢崎は日本代表引退を表明。
自分が出場できなかったことがきっかけになったのは間違いないが、その表明は前向きな日本サッカー界を見据えての表明だった。
自分が試合に出られたときも出られなかった時も、すべて経験になり自分が成長することができた。
だから自分がいなくなることで空いた席で誰かがその経験を積めるのならば、その経験を積んでもらいたい。
楢崎は川口の影となることが多かった。
代表だけで14年もの歳月を送った楢崎は試合への出場は77。
出場できなかった試合だけで99もの試合数がある。
この歴史が楢崎を成長させたのだ。
南アフリカから帰ってきた楢崎はJリーグMVPを獲得。南アフリカでの想いを結果としてクラブで出した形となった。
川口も南アフリカ以降、選出はない。
サッカー選手としては一番大きな怪我といっても過言ではないほどの大けが、アキレス腱断裂を経験しピッチから遠ざかっていた時期も経験した。
横浜フリューゲルスが消滅してしまうというJリーグ史上大きな事件があったのが1999年。
天皇杯優勝という有終の美を飾り、名古屋グランパスへと移籍した楢崎は今もゴールマウスを守り、その存在感は圧倒的なものだ。
キャプテンマークが誰よりも似合う、38歳のベテランだ。
川口はジュビロ磐田を退団し、楢崎のいる名古屋グランパスのお隣であるFC岐阜でJ2でのチャレンジに挑んでいる。
今まででは考えられなかった環境や戦いが続いているがそれでも川口は挑戦をやめようとはしていない。
また二人は近い地域でプレーすることとなった。これはきっと二人を近づける永遠の宿命なのだろう。
偉大なGKが日本代表を去った。
日本がW杯に出場するのは今回で5回目。
2014ブラジルW杯は、川口と楢崎がいないはじめての大会となる。
その二人が育てたGKが、川島永嗣だ。
そしてその川島永嗣のライバルとなり緊張感を持ちながらどっちが出てもおかしくないという位置に存在しているのが西川周作となっている。
共に刺激し合い、ぶつかり、意識して日本のゴールマウスを守っていくのだ。
たくさんの世界の名プレーヤーの際どいシュートを止めて歓声が起こった。
ゴールポストに頭をぶつけ、血でユニフォームが染まってもゴールマウスを死守した。
勇気と自信を持って飛び出すことで何度も危機を救った。
時に言い返されるほどの罵声を味方ディフェンダーに浴びせたこともある。
ノッってるときはゴールマウスが小さく見え、日本のGKの大きさを見せつけた。
ゴールキーパーが主役になった試合も数多く見ることができた。
そんな多くの場面を生んだ、川口能活と楢崎正剛。
この二人のゴールキーパーがいたからこそ、今の日本サッカー、そしてゴールキーパーがある。
お互いを意識し、ぎくしゃくしてうまく喋ることができなかった二人。
自分よりも活躍すると悔しい気持ちが常にあった二人。
その二人がいつの間にか共に笑い、共に汗を流し、気づけば隣にいつもいることが心地よくなった。
それもfootballが生ませた絆だ。
川口能活が背負ってきたものは、楢崎正剛だけが理解できる。
楢崎正剛が歩んできた道を 川口能活だけが理解している。
二人でずっと歩んできたからこそ、お互いだけが分かり合える。
そんな絶対的な関係は羨ましいと感じることができるのも「今」この時代を観ることができているからだ。
この二人がライバルとして歩んできた時間を、観ることができて本当に幸せだとサッカーファンとして感じる。
この二人がいた日本代表を経験した選手たちが
どんなことを想い、感じ、経験してブラジルW杯に背負っていくのか。
川口能活と楢崎正剛
この二人がまた同じピッチで戦うことが現実となることを サッカーを観る者として、心から期待している。
もちろん本人たちが同じピッチに立つことを キャリアの目標として掲げていることだろう。
彼らは、「ライバル」なのだから。
ありがとうございます。
同年代でサッカーをしていたので、
とても感慨深いです。
名無しさん | 1 0 |2014/10/17|18:02 返信
素晴らしい記事です。
二人のライバル関係がここまで長いのも世界を見渡しても稀なことだと思う。
私は楢崎正剛に長年憧れを抱き、応援してきたが、今となっては川口選手の活躍も影ながら応援している自分もいる。
二人には長く現役を続けて、若い選手のお手本になって頂きたい。
ならふぁん小僧 | 2 0 |2014/08/27|15:09 返信
大変感動しました。
私も二人を見て育ったGKなので思うことが多かったです。二人ともずっと応援しています。
岳 | 2 0 |2014/07/15|23:36 返信
この記事は川口も楢崎も尊重しててとても感動的でした。あの二人の伝説は今後も語り継がれていくでしょう。
GKを目指してた人 | 2 0 |2014/06/30|17:27 返信
読みながら、涙しました。
これからも、二人には頑張ってほしいです。
おはぎ | 4 0 |2014/05/25|11:11 返信
読んでいただき、ありがとうございます!
この二人がライバル関係でずっと戦ってきた時代を観られて本当に良かったと心から思っています。
また対戦観たいですね。二人がどんな気持ちでW杯を観るのかも気になります。
Tomoko Iimori | 3 0 |2014/05/27|10:11