田中達也にとってのこの四年
2014/05/16 21:50配信
カテゴリ:コラム
2010年5月10日。
この日は田中達也を愛する私にとって忘れられない日です。
きっと田中達也選手にとっても忘れられない日となったと思います。
この日は南アフリカワールドカップを戦う日本代表が発表された日でした。
この時田中達也はメンバーの当落線上にいました。
ケガから復帰し、好調を当時の岡田日本代表監督にアピール。
ケガの影響で代表から離れていましたが、それまでは代表のエースとして活躍していたそのプレーへの評価は高く、その日のスポーツ新聞の当落予想では、選出確率60%でした。
しかし結果は、選出確率40%だった矢野貴章のサプライズ選出もあって落選。
涙を呑みました。
それでも達也は気丈に振る舞い、「また4年後を目指して頑張ります」と語りました。
そんな姿を見て、落ち込んでいた私も4年後を目指す達也を応援していこうと心に決めました。
しかしその直後の試合では、いつも元気一杯フルスロットルでピッチを駆け回る達也からあまり覇気を感じられず、達也にとってのワールドカップの大きさを感じました。
そこから達也のブラジルワールドカップを目指す4年間が始まりましたが、それは苦しいものとなりました。
以前から悩まされていた足首や太ももだけでなく、慢性的な腰痛やふくらはぎのケガなどが続き、多くの試合に出場できない日々が続きました。
さらに2012年。
浦和レッズの監督に就任したミハイロ・ペトロヴィッチ監督の下、開幕戦にスタメン出場しますが、その後ケガの影響もあり、出場機会が減少。
浦和でレギュラーポジションを掴んでから初めて、ケガ以外の理由でスタメンを外れるようになりました。
そしてクラブから言い渡された戦力外通告。
出場機会と年齢を考えると納得の判断でした。
最終戦後のスピーチ。
普段あまり自分の思いを口にしない達也が、自分への不甲斐なさや悔しさ、サポーターや浦和への思い、今後への意気込みを涙ながらに語ったスピーチからは、俺はまだ終わらないんだという強い気持ちを感じました。
そして達也は翌年からアルビレックス新潟に活躍の場を移しました。
新潟ではベテランとして攻守両面でチームを引っ張り、またケガも少なく、キャリア初のリーグ戦30試合出場を達成しました。
しかしゴール数は2で、ザッケローニ日本代表監督を振り向かせるような活躍とはいきませんでした。
迎えたワールドカップイヤーの今年。
達也はまたケガに苦しめられました。
開幕前にケガを負い、さらに開幕後にも負傷。
若い鈴木武蔵の台頭もあり、復帰後もベンチから試合を見守る日々が続きました。
そんな中で迎えた先日のブラジルワールドカップ日本代表メンバー発表。
田中達也の名前が呼ばれることはなく、達也のブラジルワールドカップへの挑戦は終わりました。
年齢を考えると、おそらく今回がラストチャンスだったでしょう。
達也がワールドカップで輝く姿を夢見てきた私にとってもつらい現実です。
しかし夢のワールドカップ出場は叶わなくても、それを目指し、度重なるケガから何度も這い上がり、常に一生懸命にボールを追いかけ続ける達也の姿はたくさんの勇気をくれました。
そんな方は他にも多いのではないでしょうか。
だから達也は浦和でも誰よりも愛され、新潟でも愛されるのです。
ワールドカップにはもう出場できないかもしれませんが、Jリーグ、アジアチャンピオンズリーグ、クラブワールドカップなど、輝ける舞台はいくらでもあります。
達也のこれまでの私なんかには計り知れない努力が報われることを願いながら、これからも私の一番好きな選手である田中達也を応援し続けたいと思います。
私は達也★命さんほど、田中達也を追いかけてきたわけではありませんが、技術的にも精神的にも本当に素晴らしい選手だと思います。
田中達也の姿勢は、全ての日本人が目指すべき模範的なものだと思います。最近は田中達也のように心を揺さぶってくれる選手が少ないのが残念です。
2010年はぜひ出て欲しかったですね。私は岡田監督が酷使し続けたことが原因だと思っているので、未だに腹立たしさを感じています。
ミノル・スアレス | 0 0 |2014/05/21|09:27 返信
レーオー!!田中~達也~!!!
レーオー!!田中~達也~!!!
名無しさん | 0 0 |2014/05/21|09:17 返信