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【改正版】 松田直樹 亡くなる1ヶ月前のある日 七夕の笑顔 【3】

2016/08/04 07:07配信

Tomoko Iimori

カテゴリ:コラム

8月4日。

この日が忘れられない日になったのは2011年の あの日-。

松田直樹が亡くなった あの日-。


あの日から一日一日を重ねれば重ねるほどに時間が経っているということになるが、今でもたくさんの人が松田直樹を想い、たくさんの人が松田直樹の魂を感じている毎日は続いている。
あまりに突然すぎてあまりに悲しかったあの日。
現実をうまく受け受け入れられなかったが、さすがに受け入れざるを得なかった。

松田直樹が亡くなってしまったという事実を。

私が松田直樹に出会ったのは95年のこと。
前橋育英サッカー部の選手として高校選手権での活躍後、マリノス入りした松田直樹から思い出は始まった。

松田直樹が亡くなる1か月前のある日。
当時を共に過ごした友人との出来事を書きたいと思う。

●突然の一報。パニックの中で思い浮かべたのは一人の友人のことだった。

華々しくJリーグが開幕し、まだまだバブル的な人気があった頃。
私はまだ青春時代を過ごし、サッカーに明け暮れる毎日を送っていた。
その当時、私の住む地元にはプロサッカークラブがまだなく、気づけば遠く横浜マリノスの応援のため横浜まで何度も旅をしていた生活を送っていた。

その頃マリノスという共通点を介し、偶然出会った地元が一緒の友人と共にサッカー中心の生活を送っていることが楽しかったあの頃。
彼女は入団当初から松田直樹を熱く応援していた。
遠い地元から共に横浜までサッカー遠征をすると、自然と友人と松田直樹が接する姿を隣で見ていることも多く、横浜の思い出の端々にその光景が自然に残っていた。
楽しそうなその時間を何度も見て感じてきた。

何年も共に同じサッカーを観て同じ時間を共有してきた友人だったが、「あの時」。
しばらく疎遠になってしまい、時間が経過してしまっていた。
何年も連絡が途絶えてしまっていた時、あの出来事が起こったのだ。


松田直樹が倒れ、心肺停止-。

この一報をはじめて知ったのは、ツイッターから流れた情報だった。
はじめはたちの悪い冗談だと思った。
そんなわけはない。そんなことはあるわけないと、決め付けた。
それでも時間と共に出てくるそのときの状況と詳細。

まさか-。
松田直樹と繋がる共通の友人や知人たちに電話をかけ、何度も何度も状況を確認した。

信じたくない真実が重なった、あの時。
頭に浮かんでいたのは、大切な時間をたくさん共有した彼女のことだった。

彼女は松田直樹が倒れたこの状況で、どうしているだろうか―。


松田直樹が倒れたとき、そして亡くなってしまった後も、ずっとそのことが気がかりだった。
大きく空いた心の穴の中で、どの場面を見つめ返しても松田直樹と笑う彼女が存在したからだ。

連絡を取らなくなってしまってから8年近くが経過していた。
それだけ時間が経過しているということは、十分に生活に変化があるのは当たり前だ。
もうサッカーを観ていないかもしれない
もう松田直樹を観ていなかったかもしれない

そうどこかで思いながらも
松田直樹の死を知って心を痛めているに違いない。
あの当時を一緒に振り返ることができるのは私なのに、なんで私は近くにいてあげられないのだろう。
そう自分を責めた。

私でこんなに涙が出るのだから、きっと彼女はもっと心を痛めていることだろう。
なんで私は一緒に泣いてあげられないのか-。


●松田直樹が結び再び繋げてくれた縁


そんな時、松田直樹メモリアルの追悼試合が日産スタジアムにて年明けに行われるという発表があった。
横浜、マリノス、松本山雅、日本代表、日産スタジアム…松田直樹が詰まったこの試合には絶対に行かなくてはと心に決めた時、ふと頭に過った。
きっと彼女もココに来るはずだ-。


そこでダメ元で開いたFacebook。
今となっては当たり前に浸透しているSNSのひとつだが、当時はまだ日本では今ほど普及していなかったFacebook。
本名登録が今は便利と感じるが、当時は本名で登録するのがまだ不安と思われていた頃。

Facebookで彼女の名前を検索してみた。
すると同じ名前で数件ヒットしたものの すぐにわかった。

松本山雅の「3」のユニフォームがアイコンだった。
間違えない。彼女だ-。
やはり彼女が松田直樹を見ていないことなんて、ありえない。

そのアイコンを発見し彼女のページを開いた私はその確信で涙が止まらなかった。


すぐに連絡をすると彼女から、返事が届いた。
彼女はやはり大切な人の死に 心をとても痛めていた。

そして話してくれた。
松田直樹が亡くなる約1か月前の ある日のことを-。

●亡くなる約1か月前。七夕。

松田直樹が亡くなる約1か月前。
七夕の日に、彼女は松本にいた。

2人の子どもと妊娠7か月になる子をお腹に抱えて、松本の地へと飛んでいたという。
不思議と「絶対に会いに行かなきゃ」と思ったという彼女は、大きなお腹を抱えてもどうしても、松田直樹の元へ行くと家族旅行に出かけたのだという。

はじめて目の前にする松本山雅の松田直樹を楽しみに行ったという彼女。
グラウンドで彼女を見つけた松田直樹は、遠くからでも「そーかなーと思った!」と嬉しそうに笑ったという、再会。

再会を喜び、彼女の子どもたちにもたくさん話をしてくれたという。
長男の男の子にはサッカーやらないの?やれよー!という言葉をかけた。

亡くなる1か月前に、彼女は松田直樹に会っていた。
その事実を知って私は「良かった」と心の底から言葉が出た。

最期に会えていたこと。
それはきっと引き寄せられた なにかがあったに違いない。
引き寄せられるくらい重ねたその日々があったからこそだったであろう。


亡くなる1か月前。
松田直樹は松本でサッカーをしていた。

マリノスでは考えられなかった環境の中、自分でスパイクを持って着替えを持って、練習場に行き練習をしていた。

その時の写真を見せてもらった。
松田直樹は穏やかないい笑顔で、写っていた。
共有してきた時間や信頼がなければ引き出せないであろうやさしい笑顔がそこにあった。

3人目も無事に元気に生まれますように
そう願いお腹に手を当ててくれたというその写真は、今でも彼女の宝物となっている。


約1か月後の突然の出来事。
あの時あんなに元気だったのに。
何度も繰り返したというその言葉。
信じられない気持ちに襲われ苦しんだ彼女は、最大の悲しみを背負いながらもその後、11月にお腹の子を無事に出産した。

松田直樹が手を当ててくれたお腹。
元気な子どもを生んでよと言ってくれたその思い出。

誕生した元気な男の子に

直 と書いて

なおき という名前を命名した。

松田直樹にサッカーやれよー!と言われた長男は、松田直樹から一文字をとって「樹」いつきくん。
長男の樹くんは松田直樹が亡くなった後、サッカーを始めた。
まだはじめたばかりのサッカーだったが、与えられたポジションはディフェンダー、そして背番号は松田直樹がマリノスではじめてつけた背番号14だった。

偶然か必然か。
そこには松田直樹が溢れていた。


私たちは近くに住んでいることがわかっていながら、あえて松田直樹メモリアル…横浜の地で再会を誓った。
共に通ったあの横浜であのスタジアムで会おうと決めた。

開催された2012年1月21日。松田直樹メモリアル追悼ゲーム。
会場中が松田直樹を想い縁のある選手たちのプレーを観ている時間、ほとんど人がいないコンコースで彼女と再会した。
久々に会った彼女はやはり私にとって松田直樹とイコールで繋がっていた。
その背景が一瞬で回想され、想いが溢れた。

腕に抱かれていたのは小さな赤ちゃん。
お腹にいた赤ちゃんが元気に生まれたよ、名前もらったよって報告したくて
と、生後2か月小さなナオキくんを抱き彼女は言った。
日産の歓声の中、すやすやと気持ちよさそうに眠っていた。


2011年、七夕。
松田直樹は松本の高い青空の下、暑い夏の日差しで真っ黒になりながら楽しそうにサッカーをしていた。
自分を昔から応援してくれる人を見つけ、嬉しそうな笑顔でいつも以上によく話した。
子どもたちの高さに目線を合わせ、子どもたちにも多く語りかけた。

サッカーやれよと残した言葉通り、長男くんはサッカーをはじめた。
松田直樹は亡くなってしまったが、その姿とその言葉とその存在感で新たなサッカー少年を生んだ。

元気な子が生まれますようにと願って当てた手。
お腹の中にいた子はナオキという名で元気に日々、成長している。


穏やかな笑顔で、お腹に手を当てるその表情。
亡くなる1ヶ月前。七夕にどうしても会いにいかなきゃと感じた松田直樹は確かに、笑っていた-。


松田直樹の姿を見てきた人々。
松田直樹に関わったたくさんの人々。
松田直樹が大好きな人々。

たくさんの人々の想いがあり、たくさんの思い出をそれぞれが持ち大切にしている今日。
毎年この日や松田直樹の誕生日を迎えると、さまざまなところで語られ、松田直樹というサッカー選手を知らない人でも松田直樹の名を耳にする日になっているかもしれない。

時間が経過した今でもたくさんの人が想い、悲しみ、悔しみ、思い出す。
いなくなってしまったのは事実だが、サッカーを愛する人たちの胸には深く刻まれ生きている。
ピッチでプレーすることはもう観れないが、それでも今でも松田直樹の存在からサッカーを始める人や、サッカーを好きになる人は絶えてはいないはずだ。

松田直樹を想う日-。
忘れられない日だからこそ、この姿をこの話を届けることにしました。

最後に。
大切な最期の思い出であるこの話を 取り上げることに了承してくれた友人へ
-ありがとう。

松田直樹追悼試合にて、親交のあった横浜出身アーティストゆずが歌った「逢いたい」。

もしも願いが叶うなら
もう一度あなたに会いたい

この曲を聴いて執筆しました。

松田直樹の亡くなる直前の姿。
こんなにも穏やかに笑っていたこの時間が、たくさんの人に伝わりますように―。

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毎年、読む記事。
今日は不覚にも通勤途中で読んでしまい…
電車内で(涙)
忘れない…

ナナ好きママ  Good!!0 イエローカード0 2016/08/04|09:14 返信

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