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【三浦知良】 日本のヒーロー「KAZU」 最期に繋いだ あの日の思い出 【横浜FC】

2015/04/10 09:25配信

CHANT編集部

カテゴリ:コラム


48歳。
現在、最年長記録を更新中の日本のサッカーのキング。
三浦知良。

その偉大な姿は自身の脚でまた新たな歴史を刻んだ。
1年以上ぶりのそのゴールは、日本サッカーの皇帝が示した「存在感」そのものだった。

15歳でブラジルに渡りプロ契約し、もうプロ生活30年以上の生活をしてきた偉大な日本の皇帝とともに歩んできたJリーグ。
Jリーグのために日本でプレーし、Jリーグの成功に大きな手伝いをした選手でもある。
Jリーグの象徴。キングカズ。

私がサッカーを知ったのもカズの存在からだった―。


●footballのトビラを開けてくれたのはKAZUだった

私がはじめて三浦知良という名前を知ったのは、偶然だった。
当時、小学生の私が勉強の一環としてとっていた某有名通信教育の冊子で、子供たちに夢を語るという主旨で登場したのが三浦知良というサッカー選手の話だった。
当時、まだサッカーというスポーツが全然日本に浸透していない時代。
Jリーグというプロリーグが発足することが決まった頃。

日本ではまだまだ馴染みが浅いサッカー。
プロ化もせず、浸透もしていないサッカーで「本物」になるため、15歳で単身ブラジルに渡り、サッカーの本場ブラジルでプロになったはじめての日本人「サッカー選手」。
それが三浦知良という選手だった。

誰もなったことがないものでも、夢は追い続けると現実となる。
子供向けの通信教育の冊子で、それを読んだ私は、読み終わった時には好奇心でいっぱいになっていた。

サッカーを観てみたい、と。
カズを観てみたい、と。

その頃の私のサッカー知識は、キャプテン翼の世界観しかなかった。
キャプテン翼の中で、主人公である翼がブラジルに行くといった内容があったことで、サッカーにとってブラジルが強い場所ということを知っている程度であったが、
その時読んだカズの印象は、リアルなキャプテン翼のようだった。
15歳。
中学生だった時にブラジルに渡りサッカー武者修行をしてきたこの人を、観てみたいと思ったのだ。

サッカーに興味を持った私は、とにかくサッカーの放送がないか探した。
するとNHKで日本サッカーリーグの放送があることに気づいた。

コレだ。

日曜日の昼にひっそりと放送されていたその試合は、読売と日産の試合だった。
その画面にはあの、カズがいた。

カズだ。

ブラジルから帰ってきたキャプテン翼がそのピッチに立っていたのだ。

そこから自然な形でサッカーへと導かれていく私。
サッカー放送があると必ず見逃さずに見た。友達との約束があっても今日はサッカー観るからと断った。
テレビでサッカーの試合をやっているのなんて周りで誰一人として知らなかった。
本屋に行くとサッカー雑誌を手にした。週刊と月刊の2つをお小遣いとお年玉を切り崩して購入した。
雑誌についているポスターが部屋をどんどん埋めていく。

カズに夢をもらった私は、サッカー漬けとなっていった。

不思議と入りが三浦知良だったのにも関わらず、好きな選手として夢中になったわけではない。
もうその時にはカズは私の中で一人別格の人となっていた。
三浦知良という選手はもうその時には、違う次元の人だった。

部屋の一番目立つところに飾られたのは、日本代表のユニフォームを着たカズだった。
エンブレムに手を当て、君が代を斉唱するカズの姿は、これからの日本サッカーを背負っていく姿に見えた。

三浦知良は、私のヒーローだった。


●日本中のHEROがくれた元気と勇気


気づいた時には日本中がサッカーで湧いていた。
あんなに誰も興味がなかったサッカーだったが、気づけばプロ化を目の前に周りがサッカーサッカーと騒いでいた。
今までは野球をやっていた男の子たちが、サッカーに転向するなど影響は大きく、サッカーについて人に聞かれるようになった。
試合はいつあるの?チームはどこにあるの?試合は観れるの?
たくさんの質問責めにあった。
その時、サッカー博士になれたような気分となったものだ。
よく考えれば、あの時答えられるのが自分だけであり、子どもながらにそれを伝えることでみんなが関心を持って聞いてくれることが嬉しくて、
伝える側というものに興味を持ったのかもしれない。
もちろん後付だが、あの時、私にとってサッカーを伝える「第一歩」だった。

Jリーグと共に盛り上がりを魅せた、日本サッカー界。
冬の風物詩である高校サッカー選手権も同じく注目され、Jリーグ開幕前年に開催されたナビスコ杯はものすごい盛り上がりを魅せた。
サッカーを伝えるメディアが増え、それまで図書館じゃなければすべてを読むことができなかったほどに情報が少なかった頃に比べると、一気にメディアでの扱いも増えた。

日本のスポーツ中継といえば生まれた頃から野球か相撲かぐらいだったが、一気にサッカーの番組が増えていった。

その中心にいたのが、カズだった。
Jリーグ=カズという図式がその頃には出来上がっており、男の子たちが校庭でサッカーをしゴールを決めるとカズダンスを踊った。
当時はチームがその地域になくとも、カテゴリー1という公式グッズのショップが全国各地にあり、そこでJリーグ10チームの公式グッズを購入することができた。
Jリーグのグッズを身につけたり、文房具として持つ人も多くなっていた。
私も当然、その頃応援していたチームのグッズをたくさん持っていた。

どうしてもあの場所に行きたい。
どうしてもJリーグの開幕の場に立っていたい。

数年分の誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントを懸けて、親に交渉した。
Jリーグの開幕戦を観に行きたい。
無理ならその費用分の新聞配達をして稼いでもいい。

そんな一生のお願いクラスのお願いをしたのは、はじめてだったと思う。
最初は一蹴されたものの、本気度を伝えるために日々の生活で子どもが思いつく範囲のことはすべて行った。

成績を上げる、お手伝いをこなす、時間厳守に家庭学習を自発的にしっかりとこなす。
その頃のサッカー知識を詰め込んだ新聞を自分で作って親に渡したりした。
どれだけ行きたいか、どれだけ本気か。
サッカーブームに乗っかったことではなく、まだ小学生ながらに全身全霊でサッカーを観たいんだと伝えた。

それまでバレーボールに打ち込んでいた私が突如としてサッカーに目覚め、バレーボールでは地域の選抜に入りキャプテンも務めていた私だったが、
サッカーが知りたくて手を使い足を使ってはダメなバレーボールから、足を使うスポーツであるサッカーに転向した。
サッカー少年団は女の子を受け付けてはくれなかった時代だった。
女の子は入れない。そう一蹴されたが、それでも何度も入りたいと懇願した。
女の子らしく育ってほしい父はそれ以上サッカーに突き進むことに疑問を持っていたが、その頃には私のサッカー熱が本気のものだと感じていたのであろう母が少年団側と私の気持ちを汲んで、私の知らないところでどうにか入れないかと掛け合ってくれていた。

そしてその少年団史上、はじめて女の子を受け入れてくれた。
後に西大伍(鹿島アントラーズ)や永坂勇人(コンサドーレ札幌)、三宅史織(INAC神戸)を生んだサッカー少年団だ。

サッカーをやりたいわけではなかった。
でも無心でサッカーが知りたかった。
球技だけが得意だった私はサッカーに関してもそれなりにすぐに吸収した。
学校の中でも、女子がサッカー少年団に入ったことはちょっとした事件だった。
毎日ネットに入ったサッカーボールを持ち、男の子と同じく朝練からサッカーに励んだ。

サッカー少年団の男の子たちと、サッカーの話題を共有できることがとにかくうれしかった。
夢を追うサッカー少年の中でも、やはり憧れの対象だったのはカズだった。
男の子たちはカズのようになりたいと必死にボールを蹴っていた。

毎日サッカーをしにグラウンドへ行き、サッカー仲間の男の子たちとサッカーの話をする。
サッカーショップへと足を運び、開幕するJリーグの話をする。
スターであるカズの話を中心にサッカーの話は私の周辺では溢れていた。

その頃。
母が入院し、病院に通う日々となった。
年頃を迎え、うまく親との距離感が掴めずどこか恥ずかしさもあったため、どう接して良いものかと悩ましかった当時。
あまり母の状態がよろしくないことを感じているにも関わらず、どう接してよいものかわからなかった。
弱っていく一番身近な母を見るのが、こわかった。

病室ではただただサッカー雑誌を眺めた。
内容なんて頭には入ってこない。隣に横になって起き上がれない状態の母のことで頭はいっぱいだ。
苦しそうな姿をみながら、自分にできることがあるのかと自分の無力さを痛感していた。

カズはすごいんでしょ…?

私のサッカー好きを一過性のブームではなく本気のものだと汲み取ってくれた母は、自身もわからないであろうサッカーの話題を一生懸命振ってくれた。
自分が弱っている状態をみて感じている娘を気遣ってのことだったであろう。
サッカーのことがわからない母でも、カズのことは知っていた。
病床の人間にサッカーの話をすることが正しいかどうかは別として、その時恥ずかしさなく話せる話がサッカーの話だった。
ただただ母とのコミュニケーションが欲しくて、サッカーの話をしていた。

カズはね、15歳でブラジルに渡ったんだって
サントスFCってところでプロ契約してサッカーしてたんだって
日本人はバカにされて大変だったんだって

へぇ…カズはすごいのね…一生懸命な人だね。

母は私の話を聞くのが楽しいようだった。
サッカーの話ではなく、子どもが接してくれることが楽しかったのはわかっているが、その時話せる話、そして繋げてくれたのもカズの話題だった。

元気になるような気がして、部屋に飾っていたカズのポスターを病室に貼った。
バレーボールをしたのは、ママさんバレーをしていた母の影響だった。
バレーボールで活躍する私をみて、背が小さくバレーボールではそれがマイナスとなって悔しい想いをしてきた母にとってそれは嬉しかったらしく、とても喜んでいた。
サッカーに興味を強く持ったことで、バレーボールを辞めてしまい、そしてサッカーに進んでしまったことは今思えば、母はきっと寂しい想いを抱いていたであろう。
その頃には気づけなかったものの、それでもサッカーの話をする私の話を最期まで聞いてくれた。

闘病していた母は、最期を迎えた。
まだ12歳だった私は身近な人の「死」の感覚が目の前にいる母の姿でもピンとこなかった。
終わってしまったその人生を、母がいなくなってしまったことを
理解はしながらも脳が拒否していたのかもしれない。

整理をしていて、出てきたメモのような手帳。
それを父にみせられた。

弱り、終盤にはボールペンすら握ることができなくなる中で、ペンをなんとか握れた最期の日記には、ぐにょぐにょの弱った字でこう書かれていた。

カズのポスターを貼ってくれた。
元気が湧いてくる。


病室に貼ったカズのポスターを自分の部屋の中心に戻した。
エンブレムを握るカズの姿は、元気づけてくれているように見えた。
自分を信じろ、強く生きろ。
その状況からそう勝手に見えたのだろうが、それでもそれは強いメッセージとなって私に突き刺さった。

その時、母が他界したことを受け止めた。
サッカーボールを抱きながら大泣きした12歳のあの日。


あれから23年が経過した。
今もなお、カズは日本のサッカー界の象徴として輝き続けている。


その年数分、プロサッカー選手として歩んできた三浦知良という偉大な選手の時間に
私のように思い出を重ね、時間の流れを感じる人もたくさんいるであろう。
それだけ三浦知良の歩んできた年月は長く、年月とともにたくさんの人を魅了し、時間を共有し時代を歩んでいるのだ。


子供だった私は、曲がりくねった道をたどりながらも、親となり子を持つ母となった。
サッカーは生活の一部であり、空気といっても過言ではないものとなっている。

単身ブラジルから帰国し、日本サッカーの今後のために帰ってきた選手。
三浦知良。

48歳を迎えたJリーグ23シーズン目の今年、最年長ゴールを記録した。

カズさんはやっぱりすごいな。

その感想は小学生のに感じたものと、なんら変わりはない。

いつでもどこでも


カズはヒーローなのだ―。


三浦知良がいる時代に、サッカーを観ることができて
時間の流れに身を置くことができて

改めて本当に


幸せだと感じる。

カズさんが輝くと、その光は日本中を照らす。
それを感じることができて、本当に幸せだ。

元気が湧く その姿を、これからも追い続けていきたいと思う。

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