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フットボールの発展とサポーターの「目」3/4

2014/04/07 20:00配信

ミノル・スアレス

カテゴリ:コラム

クォリティとは曖昧なものである。それゆえ、自己満足に陥ることもある。

音楽業界は、目を覆いたくなるような惨状となっているが、スポーツの世界は、音楽業界ほど深刻な状況にはなっていない。それは勝利というスポーツならではのキーファクターがあるからだろう。例えプロモーションでお金は得られても、勝利を得ることはできない。だからこそ、スポーツの世界において、クォリティの追求が疎かになることはない。(審判の買収という手段で勝利を得ようとする輩がいることは許し難いことであるが、この話はまた別の機会にしておこう。)

しかし、どこまでクォリティを追求するかということに目を向ければ、話は別だ。日本代表でいえば、アジアカップを制することができる程度のレベルで満足するのか、南米や西欧の列強国と対等に戦えるレベルを目指すのかということだ。その答えは後者であろうが、そうであるとするならば、アジアの国々との試合において、勝利という結果だけで満足するのではなく、もっとクォリティを追求しなければならない。もちろん、協会も、クラブも、監督も、選手も皆、より高いクォリティを追求したいという思いはあるだろう。しかし、実際にそれを実行に移すのは簡単なことではない。

現実を突きつける役割をサポーターが担うべきである。

金銭や勝利というファクターとは異なり、クォリティとは得てして曖昧なものである。それゆえ、クォリティを追求していた当人たちは、自身のクォリティを客観的に評価することができず、勘違いする、自己満足に陥るといったことは日常茶飯事だ。本来は、現実を突きつける役割をサポーターが担うべきである。

日本では、どんな状況であっても応援し続けるということが誠実さであり、美徳であると考えられているように思えるが、それは時として甘やかしになることもある。また、本質的な応援とは、単に声援を送ることだけを指すものではない。クォリティが十分ではない場合は、厳しい意見を投げかけることもまた応援である。その代表的な手段がブーイングだ。

サポーター自身もサポーターとしてのクォリティを追求しなければならない。

日本人はブーイングとバッシングの意味もまた正しく認識できていないように思える。ブーイングとはサポーターがクォリティに満足していないという意思表示のための手段であり、相手を打ちのめす意味合いを持つバッシングとは似て非なるものだ。バッシングの手段として、あるいは相手チームを威嚇、挑発するための手段として、ブーイングが使われることもあるが、本来の意味合いを考えれば、正しい用法とは言いがたい。相手チームに対する過度なブーイングは、敬意を欠いた行為であり、時として相手を愚弄することになりかねないため、慎重に使うべきものだ。ブーイングは、むしろ、自チーム、あるいはゲームそのものに対して使うべきものである。

人は自分に甘いものだ。批判がなければ、自分を肯定的に捉えてしまう傾向は誰にでもあるであろう。自分の好きなこと、得意なことにおいてはなおさらだ。だからこそ、サポーターはフットボールを見る「目」を養い、チームやプレーヤーのパフォーマンスを評価し、その結果をフィードバックし続けなければならない。そういったサポーターの姿勢こそが、チームをより高みに押し上げるのだ。本当にチームを応援したいのであれば、サポーター自身もサポーターとしてのクォリティを追求しなければならない、私はそう考えている。

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